蛮な声を出すと、お兼さんは眉《まゆ》をひそめながら、嬉《うれ》しそうな眼つきをするのが常であったから、お兼さんは旦那の酔《よ》うのが嫌《きら》いなのではなくって、酒に費用《ついえ》のかかるのが嫌いなのだろうと、自分は推察していた。
自分はせっかくの好意だけれども宝塚行を断《ことわ》った。そうして腹の中で、あしたの朝岡田の留守に、ちょっと電車に乗って一人で行って様子を見て来《き》ようと取りきめた。岡田は「そうですか。文楽《ぶんらく》だと好いんだけれどもあいにく暑いんで休んでいるもんだから」と気の毒そうに云った。
翌朝《よくあさ》自分は岡田といっしょに家《うち》を出た。彼は電車の上で突然自分の忘れかけていたお貞さんの結婚問題を持ち出した。
「僕はあなたの親類だと思ってやしません。あなたのお父さんやお母さんに書生として育てられた食客《しょっかく》と心得ているんです。僕の今の地位だって、あのお兼だって、みんなあなたの御両親のお蔭《かげ》でできたんです。だから何か御恩返しをしなくっちゃすまないと平生から思ってるんです。お貞さんの問題もつまりそれが動機でしたんですよ。けっして他意はないんですからね」
お貞さんは宅《うち》の厄介ものだから、一日も早くどこかへ嫁に世話をするというのが彼の主意であった。自分は家族の一人として岡田の好意を謝すべき地位にあった。
「お宅《たく》じゃ早くお貞さんを片づけたいんでしょう」
自分の父も母も実際そうなのである。けれどもこの時自分の眼にはお貞さんと佐野という縁故も何もない二人がいっしょにかつ離れ離れに映じた。
「旨《うま》く行くでしょうか」
「そりゃ行くだろうじゃありませんか。僕とお兼を見たって解るでしょう。結婚してからまだ一度も大喧嘩《おおげんか》をした事なんかありゃしませんぜ」
「あなた方《がた》は特別だけれども……」
「なにどこの夫婦だって、大概似たものでさあ」
岡田と自分はそれでこの話を切り上げた。
十二
三沢の便《たよ》りははたして次の日の午後になっても来なかった。気の短い自分にはこんなズボラを待ってやるのが腹立《はらだた》しく感ぜられた、強《し》いてもこれから一人で立とうと決心した。
「まあもう一日《いちんち》二日《ふつか》はよろしいじゃございませんか」とお兼さんは愛嬌《あいきょう》に云ってくれた。自分が
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