うので、聞いている客を始め我々三人もただ笑うだけ笑えばそれで後《あと》には何も残らないような気がした。その上客は笑う術をどこかで練修《れんしゅう》して来たように旨《うま》く笑った。一座のうちで比較的真面目だったのはただ兄一人であった。
「とにかくその結果はどうなりました。めでたく結婚したんですか」と冗談とも思われない調子で聞いていた。
「いやそこをこれから話そうというのだ。先刻《さっき》も云った通り『景清』の趣《おもむき》の出てくるところはこれからさ。今言ってるところはほんの冒頭《まえおき》だて」と父は得意らしく答えた。
十四
父の話すところによると、その男とその女の関係は、夏の夜の夢のようにはかないものであった。しかし契《ちぎ》りを結んだ時、男は女を未来の細君にすると言明したそうである。もっともこれは女から申し出した条件でも何でもなかったので、ただ男の口から勢いに駆《か》られて、おのずと迸《ほとば》しった、誠ではあるが実行しにくい感情的の言葉に過ぎなかったと父はわざわざ説明した。
「と云うのはね、両方共おない年でしょう。しかも一方は親の脛《すね》を噛《かじ》ってる前途遼遠《ぜんとりょうえん》の書生だし、一方は下女奉公でもして暮そうという貧しい召使いなんだから、どんな堅い約束をしたって、その約束の実行ができる長い年月の間には、どんな故障が起らないとも限らない。で、女が聞いたそうですよ。あなたが学校を卒業なさると、二十五六に御成《おな》んなさる。すると私も同じぐらいに老《ふ》けてしまう。それでも御承知ですかってね」
父はそこへ来て、急に話を途切《とぎ》らして、膝の下にあった銀煙管《ぎんぎせる》へ煙草《たばこ》を詰めた。彼が薄青い煙を一時に鼻の穴から出した時、自分はもどかしさの余り「その人は何て答えました」と聞いた。
父は吸殻《すいがら》を手で叩《はた》きながら「二郎がきっと何とか聞くだろうと思った。二郎面白いだろう。世間にはずいぶんいろいろな人があるもんだよ」と云って自分を見た。自分はただ「へえ」と答えた。
「実はわしも聞いて見た、その男に。君何て答えたかって。すると坊ちゃんだね、こう云うんだ。僕は自分の年も先の年も知っていた。けれども僕が卒業したら女がいくつになるか、そこまでは考えていられなかった。いわんや僕が五十になれば先も五十になるなん
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