事話す事になっています。そう云う約束になってるんだから、お母さんが心配なさる必要はありません。安心していらっしゃい」
「じゃなるべく早く片づけた方が好いよ二郎」
自分達はその明くる宵《よい》の急行で東京へ帰る事にきめていた。実はまだ大阪を中心として、見物かたがた歩くべき場所はたくさんあったけれども、母の気が進まず、兄の興味が乗らず、大阪で中継《なかつぎ》をする時間さえ惜んで、すぐ東京まで寝台で通そうと云うのが母と兄の主張であった。
自分達は是非共|翌日《あした》の朝の汽車で和歌山から大阪へ向けて立たなければならなかった。自分は母の命令で岡田の宅《うち》まで電報を打った。
「佐野さんへはかける必要もないでしょう」と云いながら自分は母と兄の顔を眺めた。
「あるまい」と兄が答えた。
「岡田へさえ打っておけば、佐野さんはうっちゃっておいてもきっと送りに来てくれるよ」
自分は電報紙を持ちながら、是非共お貞《さだ》さんを貰いたいという佐野のお凸額《でこ》とその金縁眼鏡《きんぶちめがね》を思い出した。
「ではあのお凸額さんは止《や》めておこう」
自分はこう云って、みんなを笑わせた。自分がとうから佐野の御凸額を気にしていたごとく、ほかのものも同じ人の同じ特色を注意していたらしかった。
「写真で見たより御凸額ね」と嫂《あによめ》は真面目《まじめ》な顔で云った。
自分は冗談のうちに自分を紛《まぎら》しつつ、どんな折を利用して嫂の事を兄に復命したものだろうかと考えていた。それで時々|偸《ぬす》むようにまた先方の気のつかないように兄の様子を見た。ところが兄は自分の予期に反して、全くそれには無頓着《むとんじゃく》のように思われた。
四十二
自分が兄から別室に呼出されたのはそれが済んでしばらくしてであった。その時兄は常に変らない様子をして、(嫂に評させると常に変らない様子を装《よそお》って、)「二郎ちょっと話がある。あっちの室《へや》へ来てくれ」と穏かに云った。自分はおとなしく「はい」と答えて立った。しかしどうした機《はずみ》か立つときに嫂《あによめ》の顔をちょっと見た。その時は何の気もつかなかったが、この平凡な所作がその後自分の胸には絶えず驕慢《きょうまん》の発現として響いた。嫂は自分と顔を合せた時、いつもの通り片靨《かたえくぼ》を見せて笑った。自分と嫂の眼を
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