ほかに仕方がないわ。女一人でこの暗いのにとても和歌の浦まで行く訳には行かないから」
 下女は今まで勘違《かんちがい》をしていたと云わぬばかりの眼遣《めづかい》をして二人を見較べた。
「おい電話はどうしても通じないんだね」と自分はまた念のため聞いて見た。
「通じません」
 自分は電話口へ出て直接に試みて見る勇気もなかった。
「じゃしようがない泊ることにきめましょう」と今度は嫂に向った。
「ええ」
 彼女の返事はいつもの通り簡単でそうして落ちついていた。
「町の中なら俥《くるま》が通うんだね」と自分はまた下女に向った。

        三十四

 二人はこれから料理屋で周旋してくれた宿屋まで行かなければならなかった。仕度《したく》をして玄関を下りた時、そこに輝く電灯と、車夫の提灯《ちょうちん》とが、雨の音と風の叫びに冴《さ》えて、あたかも闇《やみ》に狂う物凄《ものすご》さを照らす道具のように思われた。嫂《あによめ》はまず色の眼につくあでやかな姿を黒い幌《ほろ》の中へ隠した。自分もつづいて窮屈な深い桐油《とうゆ》の中に身体《からだ》を入れた。
 幌の中に包まれた自分はほとんど往来の凄《すさま》じさを見る遑《いとま》がなかった。自分の頭はまだ経験した事のない海嘯《つなみ》というものに絶えず支配された。でなければ、意地の悪い天候のお蔭で、自分が兄の前で一徹に退《しりぞ》けた事を、どうしても実行しなければならなくなった運命をつらく観《かん》じた。自分の頭は落ちついて想像したり観じたりするほどの余裕を無論もたなかった。ただ乱雑な火事場のように取留めもなくくるくる廻転した。
 そのうち俥《くるま》の梶棒《かじぼう》が一軒の宿屋のような構《かまえ》の門口へ横づけになった。自分は何だか暖簾《のれん》を潜《くぐ》って土間へ這入《はい》ったような気がしたがたしかには覚えていない。土間は幅の割に竪《たて》からいってだいぶ長かった。帳場も見えず番頭もいず、ただ一人の下女が取次に出ただけで、宵《よい》の口としては至って淋《さみ》しい光景であった。
 自分達は黙ってそこに突立っていた。自分はなぜだか嫂に話したくなかった。彼女も澄まして絹張の傘《かさ》の先を斜《ななめ》に土間に突いたなりで立っていた。
 下女の案内で二人の通された部屋は、縁側《えんがわ》を前に御簾《みす》のような簀垂《すだれ》を軒
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