寄せて見せた。彼女は淋しい色沢《いろつや》の頬をもっていた。それからその真中に淋しい片靨をもっていた。
七
自分は立つ前に岡田に借りた金の片《かた》をつけて行きたかった。もっとも彼に話をしさえすれば、東京へ帰ってからでも構わないとは思ったけれども、ああいう人の金はなるべく早く返しておいた方が、こっちの心持がいいという考えがあった。それで誰も傍《そば》にいない折を見計らって、母にどうかしてくれと頼んだ。
母は兄を大事にするだけあって、無論彼を心《しん》から愛していた。けれども長男という訳か、また気むずかしいというせいか、どこかに遠慮があるらしかった。ちょっとの事を注意するにしても、なるべく気に障《さわ》らないように、始めから気を置いてかかった。そこへ行くと自分はまるで子供同様の待遇を母から受けていた。「二郎そんな法があるのかい」などと頭ごなしにやっつけられた。その代りまた兄以上に可愛《かわい》がられもした。小遣《こづかい》などは兄にないしょでよく貰った覚《おぼえ》がある。父の着物などもいつの間にか自分のに仕立直してある事は珍らしくなかった。こういう母の仕打が、例の兄にはまたすこぶる気に入らなかった。些細《ささい》な事から兄はよく機嫌《きげん》を悪くした。そうして明るい家の中《うち》に陰気な空気を漲《みな》ぎらした。母は眉《まゆ》をひそめて、「また一郎の病気が始まったよ」と自分に時々|私語《ささや》いた。自分は母から腹心の郎党として取扱われるのが嬉しさに、「癖なんだから、放《ほう》っておおきなさい」ぐらい云って澄ましていた時代もあった。兄の性質が気むずかしいばかりでなく、大小となく影でこそこそ何かやられるのを忌《い》む正義の念から出るのだという事を後《あと》から知って以来、自分は彼に対してこんな軽薄な批評を加えるのを恥《は》ずるようになった。けれども表向《おもてむき》兄の承諾を求めると、とうてい行われにくい用件が多いので、自分はつい機会《おり》を見ては母の懐《ふところ》に一人|抱《だ》かれようとした。
母は自分が三沢のために岡田から金を借りた顛末《てんまつ》を聞いて驚いた顔をした。
「そんな女のためにお金を使う訳がないじゃないか、三沢さんだって。馬鹿らしい」と云った。
「だけど、そこには三沢も義理があるんだから」と自分は弁解した。
「義理義理っ
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