いてまた冷嘲《ひやか》し始めた。岡田は兄の顔を見て、「久しぶりに会うと、すぐこれだから敵《かな》わない。全く東京ものは口が悪い」と云った。
「それにお重《しげ》の兄《あにき》だもの、岡田さん」と今度は自分が口を出した。
「お兼《かね》少し助けてくれ」と岡田がしまいに云った。そうして母の前に置いてあった先刻《さっき》のプログラムを取って袂《たもと》へ入れながら、「馬鹿馬鹿しい、骨を折ったり調戯われたり」とわざわざ怒った風をした。
 冗談《じょうだん》がひとしきり済むと、自分の予期していた通り、佐野の話が母の口から持ち出された。母は「このたびはまたいろいろ」と云ったような打って変った几帳面《きちょうめん》な言葉で岡田に礼を述べる、岡田はまたしかつめらしく改まった口上で、まことに行き届きませんでなどと挨拶《あいさつ》をする、自分には両方共|大袈裟《おおげさ》に見えた。それから岡田はちょうど好い都合だから、是非本人に会ってやってくれと、また会見の打ち合せをし始めた。兄もその話しの中に首を突込まなくっては義理が悪いと見えて、煙草を吹かしながら二人の相手になっていた。自分は病気で寝ているお貞《さだ》さんにこの様子を見せて、ありがたいと思うか、余計な御世話だと思うか、本当のところを聞いて見たい気がした。同時に三沢が別れる時、新しく自分の頭に残して行った美しい精神病の「娘さん」の不幸な結婚を聯想《れんそう》した。
 嫂《あによめ》とお兼さんは親しみの薄い間柄《あいだがら》であったけれども、若い女同志という縁故で先刻《さっき》から二人だけで話していた。しかし気心が知れないせいか、両方共遠慮がちでいっこう調子が合いそうになかった。嫂は無口な性質《たち》であった。お兼さんは愛嬌《あいきょう》のある方であった。お兼さんが十口《とくち》物をいう間に嫂は一口《ひとくち》しかしゃべれなかった。しかも種が切れると、その都度《つど》きっとお兼さんの方から供給されていた。最後に子供の話が出た。すると嫂の方が急に優勢になった。彼女はその小さい一人娘の平生を、さも興ありげに語った。お兼さんはまた嫂のくだくだしい叙述を、さも感心したように聞いていたが、実際はまるで無頓着《むとんじゃく》らしくも見えた。ただ一遍「よくまあお一人でお留守居《るすい》ができます事」と云ったのは誠らしかった。「お重さんによく馴《な》
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