。取扱方の同様なのを延《ひ》き伸ばして行くと、つまり取り扱われるものが同様だからと云う妙な結論に到着してくる。自分はふらふらとそこへ到着していたと見える。長蔵さんが働かないかと談判しているのは赤毛布で、赤毛布はすなわち自分である。何だか他人《ひと》が赤毛布を着て立ってるようには思われない。自分の魂が、自分を置き去りにして、赤毛布の中に飛び込んで、そうして長蔵さんから坑夫になれと談じつけられている。そこで、どうも情《なさけ》なくなっちまった。自分が直接に長蔵さんと応対している間は、人格も何も忘れているんだが、自分が赤毛布になって、君|儲《もう》かるんだぜと説得されている体裁《ていさい》を、自分が傍《わき》へ立って見た日には方《かた》なしである。自分ははたしてこんなものかと、少しく興を醒《さ》まして赤毛布を、つらつら観察していた。
 ところが不思議にもこの赤毛布がまた自分と同じような返事をする。被《かぶ》ってる赤毛布ばかりじゃない、心底《しんそこ》から、この若い男は自分と同じ人間だった。そこで自分はつくづくつまらないなと感じた。その上もう一つつまらない事が重なったのは、長蔵さんが、にくにくしいほど公平で、自分の方が赤毛布《あかげっと》よりも坑夫に適していると云うところを少しも見せない。全く器械的にやっている。先口《せんくち》だから、もう少しこっちを贔屓《ひいき》にしたら好かろうと思うくらいであった。――これで見ると人間の虚栄心はどこまでも抜けないものだ。窮して坑夫になるとか、ならないとか云う切歯《せっぱ》詰った時でさえ自分はこれほどの虚栄心を有《も》っていた。泥棒に義理があったり、乞食に礼式があるのも全くこの格なんだろう。――しかしこの虚栄心の方は、自分すなわち赤毛布であると云うことを自覚して、大《おおい》につまらなくなったよりも、よほどつまらなさ加減が少かった。
 自分が大につまらなくなって、ぼんやり立っていると、二人《ふたり》の談判は見る間《ま》に片づいてしまった。これは必ずしも長蔵さんがことほどさように上手だからと云う訳ではない。赤毛布の方がことほどさように馬鹿だったからである。自分はこの男を一概に馬鹿と云うが、あながち、自分に比較して軽蔑《けいべつ》する気じゃけっしてない。自分の当時は、長蔵さんの話をはいはい聞く点において、すぐ坑夫になろうと承知する点において、その他いろいろの点において、全くこの若い男と同等すなわち馬鹿であったのである。もし強《し》いて違うところを詮議《せんぎ》したら赤毛布を被《かぶ》ってるのと絣《かすり》を着ているとの差違《ちがい》くらいなものだろう。だから馬鹿と云うのは、自分と同じく気の毒な人と云う意味で、馬鹿のうちに少しぐらいは同情の意を寓《ぐう》したつもりである。
 で、馬鹿が二人長蔵さんに尾《つ》いていっしょに銅山まで引っ張られる事になった。しかるに自分が赤毛布と肩を並べて歩き出した時、ふと気がついて見ると、さっきのつまらない心持ちがもう消えていた。どうも人間の了見《りょうけん》ほど出たり引っ込んだりするものはない。有るんだなと安心していると、すでにない。ないから大丈夫と思ってると、いや有る。有るようで、ないようでその正体はどこまで行っても捕まらない。その後《のち》さる温泉場で退屈だから、宿の本を借りて読んで見たらいろいろ下らない御経の文句が並べてあったなかに、心は三世にわたって不可得《ふかとく》なりとあった。三世にわたるなんてえのは、大袈裟《おおげさ》な法螺《ほら》だろうが、不可得《ふかとく》と云うのは、こんな事を云うんじゃなかろうかと思う。もっともある人が自分の話を聞いて、いやそれは念《ねん》と云うもので心《こころ》じゃないと反対した事がある。自分はいずれでも御随意だから黙っていた。こんな議論は全く余計な事だが、なぜ云いたくなるかというと、世間には大変利口な人物でありながら、全く人間の心を解していないものがだいぶんある。心は固形体だから、去年も今年も虫さえ食わなければ大抵同じもんだろうくらいに考えているには弱らせられる。そうして、そう云う呑気《のんき》な料簡《りょうけん》で、人を自由に取り扱うの、教育するの、思うようにして見せるのと騒いでいるから驚いちまう。水だって流れりゃ返って来やしない。ぐずぐずしていりゃ蒸発しちまう。
 とにかくこの際は、赤毛布と並んで歩き出した時、もう先刻《さっき》のつまらない考えが蒸発していたと云う事だけを記憶して置いて貰《もら》えばいい。――そうして吾《われ》ながら驚いたのは、どうも赤毛布《あかげっと》と並んで歩くのが愉快になって来た。もっともこの男は茨城《いばらき》か何かの田舎《いなか》もので、鼻から逃げる妙な発音をする。芋《いも》の事を芋《えも》と訓じたのはこれからさきの逸話に属するが、歩き出したてから、あんまりありがたい音声ではなかった。その上顔が人並にできていなかった。この男に比べると角張《かくば》った顎《あご》の、厚唇《あつくちびる》の長蔵さんなどは威風堂々たるものである。のみならず茨城の田舎を突っ走ったのみで、いまだかつて東京の地を踏んだことがない。そうして、赤い毛布《けっと》が妙に臭い。それにもかかわらず自分はこの山里で、銅山行きの味方を得たような心持ちがして嬉《うれ》しかった。自分はどうせ捨てる身だけれども、一人で捨てるより道伴《みちづれ》があって欲《ほし》い。一人で零落《おちぶ》れるのは二人で零落れるのよりも淋しいもんだ。そう明らさまに申しては失礼に当るが、自分はこの男について何一つ好いてるところはなかったけれども、ただいっしょに零落れてくれると云う点だけがありがたいのでそれがため大いに愉快を感じた。それで歩き出すや否や、少し話もし掛けて見たくらいに、近しい仲となってしまった。これから推《お》して考えると、川で死ぬ時は、きっと船頭の一人や二人を引き擦《ず》り込みたくなるに相違ない。もし死んでから地獄へでも行くような事があったなら、人のいない地獄よりも、必ず鬼のいる地獄を択《えら》ぶだろう。
 そう云う訳で、たちまち赤毛布が好きになって、約一二町も歩いて来たら、また空腹を覚え出した。よく空腹を覚えるようだが、これは前段の続きでけっして新しい空腹ではない。順序を云うと、第一に精神が稀薄になって、もっとも刻下感《こっかかん》に乏しい時に汽車を下りたんで、次に真直《まっすぐ》な往来を真直に突き当りの山まで見下《みおろ》したもんだからようやく正気づいたのは前《まえ》申した通りである。それが機縁になって、今度は食気《くいけ》がついて、それから人格を認められていない事を認識して、はなはだつまらなくなって、つまらなくなったと思ったら坑夫の同類が出来て、少しく頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》したと云うしだいになる。だに因《よ》ってまた空腹に立ち戻ったと説明したら善く呑《の》み込めるだろう。さて空腹にはなったが、最後の一膳飯屋《いちぜんめしや》はもう通り越している。宿《しゅく》はすでに尽きかかった。行く手は暗い山道である。とうてい願は叶《かな》いそうもない。それに赤毛布は今食ったばかりの腹だから、勇ましくどんどん歩く。どうも、降参しちまった。そこで思い切って、最後の手段として長蔵さんに話しかけて見た。
「長蔵さん、これからあの山を越すんですか」
「あの取附《とっつき》の山かい。あれを越しちゃ大変だ。これから左へ切れるんさ」
と云ったなりまたすたすた歩いて行く。どうも是非に及ばない。
「まだよっぽどあるんですか、僕は少し腹が減ったんだが」
と、とうとう空腹の由を自白した。すると長蔵さんは
「そうかい。芋でも食うべい」
と、云いながら、すぐさま、左側の芋屋へ飛び込んだ。よく約束したように、そこん所《とこ》に芋屋があったもんだ。これを大袈裟《おおげさ》に云えば天佑《てんゆう》である。今でもこの時の上出来に行った有様を回顧すると、おかしいばかりじゃない、嬉しい。もっとも東京の芋屋のように奇麗《きれい》じゃなかった。ほとんど名状しがたいくらいに真黒になった芋屋で、芋屋と云えば芋屋だが、芋専門じゃない。と云って芋のほかに何を売ってるんだったか、今は忘れちまった。食う方に気を取られ過ぎたせいかとも思う。
 やがて長蔵さんは両手に芋を載《の》せて、真黒な家《うち》から、のそりと出て来た。入れ物がないもんだから、両手を前へ出して、
「さあ、食った」
と云う。自分は眼前に芋を突きつけられながら、ただ
「ありがとう」
と礼を述べて、芋を眺《なが》めていた。どの芋にしようかと考えた訳ではない。そんな選択を許すような芋ではなかった。赤くって、黒くって、瘠《や》せていて、湿《しめ》っぽそうで、それで所々皮が剥《は》げて、剥げた中から緑青《ろくしょう》を吹いたような味《み》が出ている。どれにぶつかったって大同小異である。そんなら一目惨澹《いちもくさんたん》たるこの芋の光景に辟易《へきえき》して、手を出さなかったかと云うと、そうでもない。自分の胃の状況から察すると、芋中《いもちゅう》のヽヽとも云わるべきこの御薩《おさつ》を快よく賞翫《しょうがん》する食欲は十分有ったように思う。しかし「さあ、食った」と突きつけられた時は、何だかおびえ[#「おびえ」に傍点]たような気分で、おいきたと手を出し損《そく》なった。これはおおかた「さあ、食った」の云い方が悪かったんだろう。
 自分が芋を取らないのを見て、長蔵さんは、少々もどかしいと云う眼つきで、再び
「さあ」
と、例の顎《あご》で芋を指《さ》しながら、前へ出した手頸《てくび》を、食えと云う相図にちょっと動かした。よく考えて見ると、両手が芋で塞《ふさが》ってるんで、自分がどうかしてやらないと、長蔵さんは、いくら芋が食いたくても、口へ持って行く事ができないんであった。じれたのももっともである。そこで自分はようやく気がついて、二の腕で、変な曲線を描《えが》いて、右の手を芋まで持って行こうとすると、持って行く途中で、芋の方が一本ころころと往来の中へ落ちた。これはすぐさま赤毛布《あかげっと》が拾った。拾ったと思ったら、
「この芋《えも》は好芋《えええも》だ。おれが貰おう」
と云った。それでこの男は芋《いも》を芋《えも》と発音すると云う事が分った。
 自分はこの時長蔵さんから、最初に三本、あとから一本|締《しめ》て五本、前後二回に受取ったと記憶している。そうしてそれを懐《なつ》かしげに食いながら、いよいよ宿外《しゅくはず》れまで来るとまた一事件《ひとじけん》起った。
 宿《しゅく》の外《はず》れには橋がある。橋の下は谷川で、青い水が流れている。自分はもう町が尽きるんだなとは思いながら、つい芋に心を奪われて、橋の上へ乗っかかるまでは川があるとも気がつかなかった。ところが急に水の音がするんで、おやと思うと橋へ出ている。川がある。水が流れている。――何だか馬鹿気た話だが、事実にもっとも近い叙述をやろうとすると、まあ、こう書くのが一番適切だろう、こう書いて置く。けっして小説家の弄《もてあそ》ぶような法螺《ほら》七分の形容ではない。これが形容でないとするとその時の自分がいかに芋を旨《うま》がったのかがおのずから分明《ぶんみょう》になる。さて水音に驚いて、欄干《らんかん》から下を見ると、音のするのはもっともで、川の中に大きな石がだいぶんある。そうしてその形状《かっこう》がいかにも不作法《ぶさほう》にでき上って、あたかも水の通り道の邪魔になるように寝たり、突っ立ったりしている。それへ水がやけにぶつかる。しかもその水には勾配《こうばい》がついている。山から落ちた勢いをなし崩《くず》しに持ち越して、追っ懸《か》けられるように跳《おど》って来る。だから川と云うようなものの、実は幅の広い瀑《たき》を月賦《げっぷ》に引き延ばしたくらいなものである。したがって水の少ない割には大変|烈《はげ》しい。鼻《はな》っ端《ぱし》の強い江戸ッ子のようにむやみやたらに突っかかって来る。そう
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