ぼう》さえ荷《かつ》いだのがある。そうかと思うと光沢《つや》のある前掛を締めて、中折帽を妙に凹《へこ》ました江戸ッ子流の商人《あきゅうど》もある。その他の何やらかやらでベンチの四方が足音と人声でざわついて来た時に、切符口の戸がかたりと開《あ》いた。待ち兼ねた連中は急いで立ち上がって、みんな鉄網《かなあみ》の前へ集ってくる。この時長蔵さんの態度は落ちつき払ったものであった。例の太刀《たち》のごとくそっくりかえった「朝日」を厚い唇《くちびる》の間に啣《くわ》えながら、あの角張《かどば》った顔を三《さん》が二《に》ほど自分の方へ向けて、
「御前さん、汽車賃を持っていなさるかい」
と聞いた。また自分の未熟なところを発表するようだが、実を云うと汽車賃の事は今が今まで自分の考えには毫《ごう》も上《のぼ》らなかったのである。汽車に乗るんだなと思いながら、いくら金を払うものか、また金を払う必要があるものか、とんと思い至らなかったのは愚《ぐ》の至《いたり》である。愚はどこまでも承認するがこの質問に出逢《であ》うまでは無賃《ただ》で乗れるかのごとき心持で平気でいたのは事実である。よく分らないけれども、何でも自分の腹の底には、長蔵さんにさえ食っついてさえおれば、どうかしてくれるんだろうと云う依頼心が妙に潜《ひそ》んでいたんだろう。ただし自分じゃけっしてそう思っていなかった。今でもそうだとは自分の事ながら申しにくい。けれども、こう云う安心がないとすれば、いくら馬鹿だって、十九だって、停車場《ステーション》へ来て汽車賃の汽[#「汽」に傍点]の字も考えずにいられるもんじゃない。その癖こんなに依頼している長蔵さんに対して、もう御世話にならなくっても、好うございますの、これから一人で行きますのと平《ひら》に同行を断ったのは、どう云う了簡《りょうけん》だろう。自分はこう云う場合にたびたび出逢《であ》ってから、しまいには自分で一つの理論を立てた。――病気に潜伏期があるごとく、吾々《われわれ》の思想や、感情にも潜伏期がある。この潜伏期の間には自分でその思想を有《も》ちながら、その感情に制せられながら、ちっとも自覚しない。またこの思想や感情が外界の因縁《いんねん》で意識の表面へ出て来る機会がないと、生涯《しょうがい》その思想や感情の支配を受けながら、自分はけっしてそんな影響を蒙《こうぶ》った覚《おぼえ》がないと主張する。その証拠はこの通りと、どしどし反対の行為言動をして見せる。がその行為言動が、傍《はた》から見ると矛盾になっている。自分でもはてなと思う事がある。はてなと気がつかないでもとんだ苦しみを受ける場合が起ってくる。自分が前に云った少女に苦しめられたのも、元はと云えば、やっぱりこの潜伏者を自覚し得なかったからである。この正体の知れないものが、少しも自分の心を冒《おか》さない先に、劇薬でも注射して、ことごとく殺し尽す事が出来たなら、人間幾多の矛盾や、世上幾多の不幸は起らずに済んだろうに。ところがそう思うように行かんのは、人にも自分にも気の毒の至りである。
 それで、自分が長蔵さんから「御前さん汽車賃を持っていなさるか」と問われた時に、自分ははっと思って、少からず狼狽《うろた》えた。三十二銭のうちで饅頭《まんじゅう》の代と茶代を引くと何にもありゃしない。汽車賃もない癖に、坑夫になろうなんて呑込顔《のみこみがお》に受合ったんだから、自分は少し図迂図迂《ずうずう》しい人間であったんだと気がついたら、急に頬辺《ほっぺた》が熱くなった。その時分の事を考えると自分ながら可愛らしい。これが今だったら、たとい電車の中で借金の催促をされようとも、ただ困るだけで、けっして赤面はしない。ましてぽん引きの長蔵さんなどに対して、神聖なる羞恥《しゅうち》の血色を見せるなんてもったいない事は、夢にもやる気遣《きづか》いはありゃしない。
 自分はどう云うものか、長蔵さんに対して汽車賃はありますと答えたかった。しかし実際がないんだから嘘《うそ》を吐《つ》く訳には行かない。嘘を吐きっ放《ぱなし》にして済ませられるなら、思い切って、嘘を吐く事にしたろうが、とにかく今切符を買うと云う間際《まぎわ》で、吐けばすぐ露現《ろけん》してしまうんだから始末がわるい。と云って汽車賃はありませんと答えるのがいかにも苦痛である。どうも子供だから、しかも満更《まんざら》の子供でなくって、少し大きくなりかけた、色気のついた、煩悶《はんもん》をしている、つまらん常識があるような、ないような子供だから、なおなお不都合だった。そこで汽車賃はありますとも、ありませんとも云いにくかったもんだから、
「少しあります」
と答えた。それも響の物に応ずるごとく、停滞なく出ればよかったが、何しろもったいなくも頬辺を赤くしたあとで、はなはだ恐縮の態度で出したんだから、馬鹿である。
「少しって、御前さん、いくら持ってるい」
と長蔵さんが聞き返した。長蔵さんは自分が頬辺を赤くしても、恐縮しても、まるで頓着《とんじゃく》しない。ただいくら持ってるか聞きたい様子であった。ところがあいにく肝心《かんじん》の自分にはいくらあるか判然しない。何しろ|〆《しめ》て三十二銭のうち、饅頭《まんじゅう》を三皿食って、茶代を五銭やったんだから、残るところはたくさんじゃない。あっても無くっても同じくらいなものだ。
「ほんのわずかです。とても足りそうもないです」
と正直なところを云うと、
「足りないところは、私《わたし》が足して上げるから、構わない。何しろ有るだけ御出し」
と、思ったよりは平気である。自分はこの際一銭銅や二銭銅を勘定するのは、いかにも体裁《ていさい》がわるいと考えた上に、有るものを無いと隠すように取られては厭《いや》だから、懐《ふところ》から例の蟇口《がまぐち》を取り出して、蟇口ごと長蔵さんに渡した。この蟇口は鰐《わに》の皮で拵《こしら》えたすこぶる上等なもので、親父から貰う時も、これは高価な品であると云う講釈をとくと聴かされた贅沢物《ぜいたくもの》である。長蔵さんは蟇口を受け取って、ちょっと眺《なが》めていたが、
「ふふん、安くないね」
と云ったなり中味も改めずに腹掛の隠しへ入れちまった。中味を改めないところはよかったが、
「じゃ、私が切符を買って来て上げるから、ちゃんとここに待っていなくっちゃ、いけない。はぐれると、坑夫になれないんだからね」
と念を押して、ベンチを離れて切符口の方へすたすた行ってしまった。見ていると人込《ひとごみ》の中へ這入《はい》ったなり振り返りもしないで切符を買う番のくるのを待っている。さっき松原の掛茶屋を出てから、今先方《いまさきがた》までの長蔵さんは始終《しじゅう》自分の傍《そば》に食っついていて、たまに離れると便所からでも顔を出して呼ぶくらいであったのに、蟇口を受け取って、切符を買う時はまるで自分を忘れているように見受けられた。あんまり人が多くって、こっちへ眼をつける暇がなかったんだろう。これに反して自分は一生懸命に長蔵さんの後姿を見守って、札を買う順番が一人一人に廻って来るたんびに長蔵さんがだんだん切符口へ近づいて行くのを、遠くから妙な神経を起して眺《なが》めていた。蟇口は立派だが中を開けられたら銅貨が出るばかりだ。開けて見て、何だこれっぱかりしか持っていないのかと長蔵さんが驚くに違ない。どうも気の毒である。いくら足し前をするんだろうなどと入らざる事を苦《く》に病《や》んでいると、やがて長蔵さんは平生《へいぜい》の顔つきで帰って来た。
「さあ、これが御前さんの分だ」
と云いながら赤い切符を一枚くれたぎりいくら不足だとも何とも云わない。きまりが悪かったから、自分もただ
「ありがとう」
と受取ったぎり賃銭の事は口へ出さなかった。蟇口の事もそれなりにして置いた。長蔵さんの方でも蟇口の事はそれっきり云わなかった。したがって蟇口はついに長蔵さんにやった事になる。
 それから、とうとう二人して汽車へ乗った。汽車の中では別にこれと云う出来事もなかった。ただ自分の隣りに腫物《できもの》だらけの、腐爛目《ただれめ》の、痘痕《あばた》のある男が乗ったので、急に心持が悪くなって向う側へ席を移した。どうも当時の状態を今からよく考えて見るとよっぽどおかしい。生家《うち》を逃亡《かけお》ちて、坑夫にまで、なり下《さが》る決心なんだから、大抵の事に辟易《へきえき》しそうもないもんだがやっぱり醜《きた》ないものの傍《そば》へは寄りつきたくなかった。あの按排《あんばい》では自殺の一日前でも、腐爛目の隣を逃げ出したに違ない。それなら万事こう几帳面《きちょうめん》に段落をつけるかと思うと、そうでないから困る。第一長蔵さんや茶店のかみさんに逢《あ》った時なんぞは平生の自分にも似ず、※[#「口+禺」、第3水準1−15−9]《ぐう》の音《ね》も出さずに心《しん》からおとなしくしていた。議論も主張も気慨《きがい》も何もあったもんじゃありゃしない。もっともこれはだいぶ餓《ひも》じい時であったから、少しは差引いて勘定を立《たて》るのが至当だが、けっして空腹のためばかりとは思えない。どうも矛盾――また矛盾が出たから廃《よ》そう。
 自分は自分の生活中もっとも色彩の多い当時の冒険を暇さえあれば考え出して見る癖がある。考え出すたびに、昔の自分の事だから遠慮なく厳密なる解剖の刀を揮《ふる》って、縦横《たてよこ》十文字に自分の心緒《しんしょ》を切りさいなんで見るが、その結果はいつも千遍一律で、要するに分らないとなる。昔《むか》しだから忘れちまったんだなどと云ってはいけない。このくらい切実な経験は自分の生涯《しょうがい》中に二度とありゃしない。二十《はたち》以下の無分別から出た無茶だから、その筋道が入り乱れて要領を得んのだと評してはなおいけない。経験の当時こそ入り乱れて滅多《めった》やたらに盲動するが、その盲動に立ち至るまでの経過は、落ち着いた今日《こんにち》の頭脳の批判を待たなければとても分らないものだ。この鉱山|行《ゆき》だって、昔の夢の今日だから、このくらい人に解るように書く事が出来る。色気がなくなったから、あらいざらい書き立てる勇気があると云うばかりじゃない。その時の自分を今の眼の前に引擦《ひきず》り出して、根掘り葉掘り研究する余裕がなければ、たといこれほどにだってとうてい書けるものじゃない。俗人はその時その場合に書いた経験が一番正しいと思うが、大間違である。刻下《こっか》の事情と云うものは、転瞬《てんしゅん》の客気《かっき》に駆られて、とんでもない誤謬《ごびゅう》を伝え勝ちのものである。自分の鉱山行などもその時そのままの心持を、日記にでも書いて置いたら、定めし乳臭い、気取った、偽りの多いものが出来上ったろう。とうてい、こうやって人の前へ御覧下さいと出された義理じゃない。
 自分が腐爛目の難を避けて、向う側に席を移すと、長蔵さんは一目ちょっと自分と腐爛目を見たなりで、やはり元の所へ腰を掛けたまま動かなかった。長蔵さんの神経が自分よりよほど剛健なのには少からず驚嘆した。のみならず、平気な顔で腐爛目と話し出したに至って、少しく愛想《あいそ》が尽きた。
「また山行きかね」
「ああまた一人連れて行くんだ」
「あれかい」
と腐爛目は自分の方を見た。長蔵さんはこの時何か返事をしかけたんだろうがふと自分と顔を見合せたものだから、そのまま厚い唇を閉じて横を向いてしまった。その顔について廻って、腐爛目は、
「まただいぶん儲《もう》かるね」
と云った。自分はこの言葉を聞くや否やたちまち窓の外へ顔を出した。そうして窓から唾液《つばき》をした。するとその唾液が汽車の風で自分の顔へ飛んで来た。何だか不愉快だった。前の腰掛で知らない男が二人弁じている。
「泥棒が這入《はい》るとするぜ」
「こそこそがかい」
「なに強盗がよ。それでもって、抜身《ぬきみ》か何かで威嚇《おど》した時によ」
「うん、それで」
「それで、主人《あるじ》が、泥棒だからってんで贋銭《にせがね》をやって帰したとするん
前へ 次へ
全34ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング