い浮べたまでであろうが、それほど人間が死ぬのを苦に病んでいようとは夢にも思い浮べなかった。これだから自殺などはできないはずである。こう云う時は、魂の段取《だんどり》が平生と違うから、自分で自分の本能に支配されながら、まるで自覚しないものだ。気をつけべき事と思う。この例なども、解釈のしようでは、神が助けてくれたともなる。自分の影身《かげみ》につき添っている――まあ恋人が多いようだが――そう云う人々の魂が救ったんだともなる。年の若い割に、自分がこの声を艶子さんとも澄江さんとも解釈しなかったのは、己惚《うぬぼれ》の強い割には感心である。自分は生れつきそれほど詩的でなかったんだろう。
 そこへ初さんがひょっくり帰って来た。初さんを見るが早いか、自分の意識はいよいよ明瞭《めいりょう》になった。これから例の逆桟道《さかさんどう》を登らなくっちゃならない事も、明日《あした》から、鑿《のみ》と槌《つち》でかあんかあんやらなくっちゃならない事も、南京米《ナンキンまい》も、南京虫《ナンキンむし》も、ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]も達磨《だるま》も一時に残らず分ってしまい、そうして最後に自分の堕落がもっとも明かに分った。
「ちったあ気分は好いか」
「ええ少しは好いようです」
「じゃ、そろそろ登ってやろう」
と云うから、礼を云って立っていると、初さんは景気よく段木《だんぎ》を捕《つかま》えて片足|踏《ふ》ん掛《が》けながら、
「登りは少し骨が折れるよ。そのつもりで尾《つ》いて来ねえ」
と振り返って、注意しながら登り出した。自分は何となく寒々しい心持になって、下から見上げると、初さんは登って行く。猿のように登って行く。そろそろ登ってくれる様子も何もありゃしない。早くしないとまた置いてきぼりを食う恐れがある。自分も思い切って登り出した。すると二三段足を運ぶか運ばないうちになるほどと感心した。初さんの云う通り非常に骨が折れる。全く疲れているばかりじゃない。下りる時には、胸から上が比較的前へ出るんで、幾分か背の重みを梯子《はしご》に託する事ができる。しかし上りになると、全く反対で、ややともすると、身体が後《うしろ》へ反《そ》れる。反れた重みは、両手で持ち応《こた》えなければならないから、二の腕から肩へかけて一段ごとに余分の税がかかる。のみならず、手の平《ひら》と五本の指で、この|〆高《しめだか》を握らなければならない。それが前に云った通りぬるぬるする。梯子を一つ片づけるのは容易の事ではない。しかもそれが十五ある。初さんは、とっくの昔に消えてなくなった。手を離しさえすれば真暗闇《まっくらやみ》に逆落《さかおと》しになる。離すまいとすれば肩が抜けるばかりだ。自分は七番目の梯子の途中で火焔《かえん》のような息を吹きながら、つくづく労働の困難を感じた。そうして熱い涙で眼がいっぱいになった。
 二三度|上瞼《うわまぶた》と下瞼を打ち合して見たが、依然として、視覚はぼうっとしている。五寸と離れない壁さえたしかには分らない。手の甲で擦《こす》ろうと思うが、あやにく両方とも塞《ふさ》がっている。自分は口惜《くやし》くなった。なぜこんな猿の真似をするように零落《おちぶ》れたのかと思った。倒れそうになる身体《からだ》を、できるだけ前の方にのめらして、梯子に倚《もた》れるだけ倚れて考えた。休んだと註釈する方が適当かも知れない。ただ中途で留まったと云い切ってもよろしい。何しろ動かなくなった。また動けなくなった。じっとして立っていた。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]のじいと鳴るのも、足の底へ清水《しみず》が沁み込むのも、全く気がつかなかった。したがって何分《なんぷん》過《た》ったのかとんと感じに乗らない。するとまた熱い涙が出て来た。心が存外たしかであるのに、眼だけが霞《かす》んでくる。いくら瞬《まばたき》をしても駄目だ。湯の中に眸《ひとみ》を漬《つ》けてるようだ。くしゃくしゃする。焦心《じれっ》たくなる。癇《かん》が起る。奮興《ふんこう》の度が烈《はげ》しくなる。そうして、身体は思うように利《き》かない。自分は歯を食い締《しば》って、両手で握った段木を二三度揺り動かした。無論動きゃしない。いっその事、手を離しちまおうかしらん。逆さに落ちて頭から先へ砕ける方が、早く片がついていい。とむらむらと死ぬ気が起った。――梯子の下では、死んじゃ大変だと飛び起きたものが、梯子の途中へ来ると、急に太い短い無分別を起して、全く死ぬ気になったのは、自分の生涯《しょうがい》における心理推移の現象のうちで、もっとも記憶すべき事実である。自分は心理学者でないから、こう云う変化を、どう説明したら適切であるか知らないけれども、心理学者はかえって、実際の経験に乏しいようにも思うから、杜撰《ずさん》ながら、一応自分の愚見だけを述べて、参考にしたい。
 アテシコ[#「アテシコ」に傍点]を尻に敷いて、休息した時は、始めから休息する覚悟であった。から心に落ちつきが有る。刺激が少い。そう云う状態で壁へ倚《よ》りかかっていると、その状態がなだらかに進行するから、自然の勢いとしてだんだん気が遠くなる。魂が沈んで行く。こう云う場合における精神運動の方向は、いつもきまったもので、必ず積極から出立してしだいに消極に近づく径路《けいろ》を取るのが普通である。ところがその普通の径路を行き尽くして、もうこれがどん詰《づまり》だと云う間際《まぎわ》になると、魂が割れて二様の所作《しょさ》をする。第一は順風に帆を上げる勢いで、このどん底まで流れ込んでしまう。するとそれぎり死ぬ。でなければ、大切《おおぎり》の手前まで行って、急に反対の方角に飛び出してくる。消極へ向いて進んだものが、突如として、逆さまに、積極の頭へ戻る。すると、命がたちまち確実になる。自分が梯子《はしご》の下で経験したのはこの第二に当る。だから死に近づきながら好い心持に、三途《さんず》のこちら側まで行ったものが、順路をてくてく引き返す手数《てすう》を省《はぶ》いて、急に、娑婆《しゃば》の真中に出現したんである。自分はこれを死を転じて活に帰す経験と名づけている。
 ところが梯子の中途では、全くこれと反対の現象に逢《あ》った。自分は初さんの後《あと》を追っ懸けて登らなければならない。その初さんは、とっくに見えなくなってしまった。心は焦《あせ》る、気は揉《も》める、手は離せない。自分は猿よりも下等である。情ない。苦しい。――万事が痛切である。自覚の強度がしだいしだいに劇《はげ》しくなるばかりである。だからこの場合における精神運動の方向は、消極より積極に向って登り詰める状態である。さてその状態がいつまでも進行して、奮興《ふんこう》の極度に達すると、やはり二様の作用が出る訳だが、とくに面白いと思うのはその一つ、――すなわち積極の頂点からとんぼ返りを打って、魂が消極の末端にひょっくり現われる奇特《きどく》である。平たく云うと、生きてる事実が明瞭になり切った途端《とたん》に、命を棄てようと決心する現象を云うんである。自分はこれを活上《かつじょう》より死に入る作用と名《なづ》けている。この作用は矛盾のごとく思われるが実際から云うと、矛盾でも何でも、魂の持前だから存外自然に行われるものである。論より証拠《しょうこ》発奮して死ぬものは奇麗《きれい》に死ぬが、いじけて殺されるものは、どうも旨《うま》く死に切れないようだ。人の身の上はとにかく、こう云う自分が好い証拠である。梯子の途中で、ええ忌々《いまいま》しい、死んじまえと思った時は、手を離すのが怖《こわ》くも何ともなかった。無論例のごとくどきんなどとはけっしてしなかった。ところがいざ死のうとして、手を離しかけた時に、また妙な精神作用を承当《しょうとう》した。
 自分は元来が小説的の人間じゃないんだが、まだ年が若かったから、今まで浮気に自殺を計画した時は、いつでも花々しくやって見せたいと云う念があった。短銃《ピストル》でも九寸五分《くすんごぶ》でも立派に――つまり人が賞《ほ》めてくれるように死んでみたいと考えていた。できるならば、華厳《けごん》の瀑《たき》まででも出向きたいなどと思った事もある。しかしどうしても便所や物置で首を縊《くく》るのは下等だと断念していた。その虚栄心が、この際突然首を出した。どこから出したか分らないが、出した。つまり出すだけの余地があったから出したに相違あるまいから、自分の決心はいかに真面目《まじめ》であったにしても、さほど差し逼《せま》ってはいなかったんだろう。しかしこのくらい断乎《だんこ》として、現に梯子段《はしごだん》から手を離しかけた、最中に首を出すくらいだから、相手もなかなか深い勢力を張っていたに違ない。もっともこれは死んで銅像になりたがる精神と大した懸隔《けんかく》もあるまいから、普通の人間としては別に怪しむべき願望とも思わないが、何しろこの際の自分には、ちと贅沢《ぜいたく》過ぎたようだ。しかしこの贅沢心のために、自分は発作性《ほっさせい》の急往生を思いとまって、不束《ふつつか》ながら今日まで生きている。全く今はの際《きわ》にも弱点を引張っていた御蔭である。
 話すとこうなる。――いよいよ死んじまえと思って、体を心持|後《あと》へ引いて、手の握《にぎり》をゆるめかけた時に、どうせ死ぬなら、ここで死んだって冴《さ》えない。待て待て、出てから華厳《けごん》の瀑《たき》へ行けと云う号令――号令は変だが、全く号令のようなものが頭の中に響き渡った。ゆるめかけた手が自然と緊《しま》った。曇った眼が、急に明かるくなった。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]が燃えている。仰向《あおむ》くと、泥で濡《ぬ》れた梯子段が、暗い中まで続いている。是非共登らなければならない。もし途中で挫折《ざせつ》すれば犬死になる。暗い坑《あな》で、誰も人のいない所で、日の目も見ないで、鉱《あらがね》と同じようにころげ落ちて、それっきり忘れられるのは――案内の初さんにさえ忘れられるのは――よし見つかっても半獣半人の坑夫共に軽蔑《けいべつ》されるのは無念である。是非共登り切っちまわなければならない。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]は燃えている。梯子は続いている。梯子の先には坑が続いている。坑の先には太陽が照り渡っている。広い野がある、高い山がある。野と山を越して行けば華厳の瀑がある。――どうあっても登らなければならない。
 左の手を頭の上まで伸ばした。ぬらつく段木を指の痕《あと》のつくほど強く握った。濡れた腰をうんと立てた。同時に右の足を一尺上げた。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の灯《ひ》は暗い中を竪《たて》に動いて行く。坑は層一層《そういっそう》と明かるくなる。踏み棄《す》てて去る段々はしだいしだいに暗い中に落ちて行く。吐く息が黒い壁へ当る。熱い息である。そうして時々は白く見えた。次には口を結んだ。すると鼻の奥が鳴った。梯子はまだ尽きない。懸崖《けんがい》からは水が垂れる。ひらりとカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を翻《ひるが》えすと、崖《がけ》の面《おもて》を掠《かす》めて弓形にじいと、消えかかって、手の運動の止まる所へ落ちついた時に、また真直に油煙を立てる。また翻《ひるが》えす。灯《ひ》は斜めに動く。梯子の通る一尺幅を外《はず》れて、がんがらがんの壁が眼に映《うつ》る。ぞっとする。眼が眩《くら》む。眼を閉《ねむ》って、登る。灯も見えない、壁も見えない。ただ暗い。手と足が動いている。動く手も動く足も見えない。手障足障《てざわりあしざわり》だけで生きて行く。生きて登って行く。生きると云うのは登る事で、登ると云うのは生きる事であった。それでも――梯子はまだある。
 それから先はほとんど夢中だ。自分で登ったのか、天佑《てんゆう》で登ったのかほとんど判然しない。ただ登り切って、もう一段も握る梯子がないと云う事を覚《さと》った時に、坑の中へぴたりと坐った。
「どうした。上がって来たか。途中で死にゃしねえかと思って、――あんまり長えから。見に行こうか
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