い》って御覧なさい。案内を一人つけて上げるから。――それからと――そうだ、その前に話して置かなくっちゃなりませんがね。一口に坑夫と云うと、訳もない仕事のように思われましょうが、なかなか外で聞いてるような生容易《なまやさし》い業《わざ》じゃないんで。まあ取っつけから坑夫になるなあ」と云って自分の顔を眺《なが》めていたが、やがて、
「その体格じゃ、ちっとむずかしいかも知れませんね。坑夫でなくっても、好《よ》うがすかい」
と気の毒そうに聞いた。坑夫になるまでには相当の階級と練習を積まなくっちゃならないと云う事がここで始めて分った。なるほど長蔵さんが坑夫坑夫と、さも名誉らしく坑夫を振り廻したはずだ。
「坑夫のほかに何かあるんですか。ここにいるものは、みんな坑夫じゃないんですか」
と念のために聞いて見た。すると原さんは、自分を馬鹿にした様子もなく、すぐそのわけを説明してくれた。
「銅山《やま》にはね、一万人も這入っててね。それが掘子《ほりこ》に、シチュウ[#「シチュウ」に傍点]に、山市《やまいち》に、坑夫と、こう四つに分れてるんでさあ。掘子《ほりこ》ってえな、一人前の坑夫に使えねえ奴がなるんで、まあ坑夫の下働《したばたらき》ですね。シチュウ[#「シチュウ」に傍点]は早く云うとシキ[#「シキ」に傍点]の内《なか》の大工見たようなものかね。それから山市《やまいち》だが、こいつは、ただ石塊《いしっころ》をこつこつ欠いてるだけで、おもに子供――さっきも一人来たでしょう。ああ云うのが当分坑夫の見習にやる仕事さね。まあざっと、こんなものですよ。それで坑夫となると請負《うけおい》仕事だから、間《ま》が好いと日に一円にも二円にも当る事もあるが、掘子は日当で年《ねん》が年中《ねんじゅう》三十五銭で辛抱しなければならない。しかもそのうち五分《ごぶ》は親方が取っちまって、病気でもしようもんなら手当が半分だから十七銭五厘ですね。それで蒲団《ふとん》の損料が一枚三銭――寒いときは是非二枚|要《い》るから、都合で六銭と、それに飯代が一日十四銭五厘、御菜《おさい》は別ですよ。――どうです。もし坑夫にいけなかったら、掘子にでもなる気はありますかね」
 実のところはなりますと勢いよく出る元気はなかったが、ここまで来れば、今更《いまさら》どうしたって否《いや》だと断られた義理のもんじゃない。そこで、出来るだけ景気よく、
「なります」
と答えてしまった。原さんにはこの答が断然たる決心のように受けとれたか、それとも、瘠我慢《やせがまん》のつけ景気《げいき》のごとく響いたか、その辺《へん》は確《しか》と分らないが、何しろこの一言《いちごん》を聞いた原さんは、機嫌よく、
「じゃまあ、御上《おあ》がんなさい。そうして、あした人をつけて上げるから、まあシキ[#「シキ」に傍点]へ這入って御覧なさるがいい。何しろ一万人もいて、こんなに組々に分れているんだから、飯場《はんば》を一つでも預かってると、毎日毎日何だかだって、うるさい事ばかりでね。せっかく頼むから置いてやる、すぐ逃げる。――一日《いちんち》に二三人はきっと逃げますよ。そうかと云って、おとなしくしているかと思うと、病気になって、死んじまう奴が出て来て――どうも始末に行かねえもんでさあ。葬《ともら》いばかりでも日に五六組無い事あ、滅多《めった》にないからね。まあやる気なら本気にやって御覧なさい。腰を掛けてちゃ、足が草臥《くたび》れるだろう。こっちへ御上り」
 この逐一《ちくいち》を聞いていた自分はたとい、掘子《ほりこ》だろうが、山市《やまいち》だろうが一生懸命に働かなくっちゃあ、原さんに対して済まない仕儀になって来た。そこで心のうちに、原さんの迷惑になるような不都合はけっしてしまいときめた。何しろ年が十九だから正直なものだった。
 そこで原さんの云う通り、足を拭いて尻をおろしているうちに、奥の方から婆さんが出て来て、――この婆さんの出ようがはなはだ突然で、ちょっと驚いたが、
「こっちへ御出《おいで》なさい」
と云うから、好加減《いいかげん》に御辞儀をして、後《あと》から尾《つ》いて行った。小作《こづくり》な婆さんで、後姿の華奢《きゃしゃ》な割合には、ぴんぴん跳《は》ねるように活溌《かっぱつ》な歩き方をする。幅の狭い茶色の帯をちょっきり結《むすび》にむすんで、なけなしの髪を頸窩《ぼんのくぼ》へ片づけてその心棒《しんぼう》に鉛色の簪《かんざし》を刺している。そうして襷掛《たすきがけ》であった。何でも台所か――台所がなければ、――奥の方で、用事の真っ最中に、案内のため呼び出されたから、こう急がしそうに尻を振るんだろう。それとも山育《やまそだち》だからかしら。いや、飯場《はんば》だから優長《ゆうちょう》にしちゃいられないせいだろう。して見ると、今日から飯場の飯を食い出す以上は自分だって安閑としちゃいられない。万事この婆さんの型で行かなくっちゃなるまい。――なるまい。――と力を入れて、うんと思ったら、さすがに草臥れた手足が急になるまい[#「なるまい」に傍点]で充満して、頭と胸の組織がちょっと変ったような気分になった。その勢いで広い階子段《はしごだん》を、案内に応じて、すとんすとんと景気よく登って行った。が自分の頭が階子段から、ぬっと一尺ばかり出るや否や、この決心が、ぐうと退避《たじろ》いだ。
 胸から上を階子段の上へ出して、二階を見渡すと驚いた。畳数《たたみかず》は何十枚だか知らないが遥《はるか》の突き当りまで敷き詰めてあって、その間には一重《ひとえ》の仕切りさえ見えない。ちょうど柔道の道場か、浪花節《なにわぶし》の席亭のような恰好《かっこう》で、しかも広さは倍も三倍もある。だから、ただ駄々《だだ》ッ広《ぴろ》い感じばかりで、畳の上でもまるで野原へ出たとしきゃあ思えない。それだけでも驚く価値《ねうち》は十分あるが、その広い原の中に大きな囲炉裏《いろり》が二つ切ってある、そこへ人間が約十四五人ずつかたまっている。自分の決心が退避いだと云うのは、卑怯《ひきょう》な話だが、全くこの人間にあったらしい。平生から強がっていたにはいたが、若輩《じゃくはい》の事だから、見ず知らずの多勢の席へ滅多《めった》に首を出した事はない。晴の場所となると、ただでさえもじもじする。ところへもって来て、突然坑夫の団体に生擒《いけど》られたんだから、この黒い塊《かたまり》を見るが早いか、いささか辟易《ひるん》じまった。それも、ただの人間ならいい。と云っちゃ意味がよく通じない。――ただの人間が、坑夫になってるなら差支《さしつかえ》ない。ところが自分の胸から上が、階子段を出ると、等しく、この塊の各部分が、申し合せたように、こっちを向いた。その顔が――実はその顔で全く畏縮《いしゅく》してしまった。と云うのはその顔がただの顔じゃない。ただの人間の顔じゃない。純然たる坑夫の顔であった。そう云うより別に形容しようがない。坑夫の顔はどんなだろうと云う好奇心のあるものは、行って見るより外に致し方がない。それでも是非説明して見ろと云うなら、ざっと話すが、――頬骨《ほおぼね》がだんだん高く聳《そび》えてくる。顎《あご》が競《せ》り出す。同時に左右に突っ張る。眼が壺《つぼ》のように引ッ込んで、眼球《めだま》を遠慮なく、奥の方へ吸いつけちまう。小鼻が落ちる。――要するに肉と云う肉がみんな退却して、骨と云う骨がことごとく吶喊《とっかん》展開するとでも評したら好かろう。顔の骨だか、骨の顔だか分らないくらいに、稜々《りょうりょう》たるものである。劇《はげ》しい労役の結果早く年を取るんだとも解釈は出来るが、ただ天然自然に年を取ったって、ああなるもんじゃない。丸味とか、温味《あたたかみ》とか、優味《やさしみ》とか云うものは薬にしたくっても、探し出せない。まあ一口に云うと獰猛《どうもう》だ。不思議にもこの獰猛な相《そう》が一列一体の共有性になっていると見えて、囲炉裏《いろり》の傍《はた》の黒いものが等しく自分の方を向くと、またたく間《ま》に獰猛な顔が十四五|揃《そろ》った。向うの囲炉裏を取捲《とりま》いてる連中も同じ顔に違いない。さっき坂を上がってくるとき、長屋の窓から自分を見下《みおろ》していた顔も全くこれである。して見ると組々の長屋に住んでいる総勢一万人の顔はことごとく獰猛なんだろう。自分は全く退避《ひる》んだ。
 この時婆さんが後《うしろ》を振り返って、
「こっちへおいでなさい」
と、もどかしそうに云うから、度胸を据《す》えて、獰猛の方へ近づいて行った。ようやく囲炉裏の傍《はた》まで来ると、婆さんが、今度は、
「まあここへ御坐《おすわ》んなさい」
と差《さ》しずをしたが、ただ好加減《いいかげん》な所へ坐れと云うだけで、別に設けの席も何もないんだから、自分は黒い塊《かたま》りを避《さ》けて、たった一人畳の上へ坐った。この間獰猛な眼は、始終《しじゅう》自分に喰っついている。遠慮も何もありゃしない。そうして誰も口を利《き》くものがない。取附端《とりつきは》を見出《みいだ》すまでは、団体の中へ交り込む訳にも行かず、ぽつねんと独《ひと》りぼッちで離れているのは、獰猛の目標《めじるし》となるばかりだし、大いに困った。婆さんは、自分を紹介する段じゃない、器械的に「ここへ坐れ」と云ったなり、ちょっ切り結びの尻を振り立てて階子段《はしごだん》を降りて行ってしまった。広い寄席《よせ》の真中にたった一人取り残されて、楽屋の出方《でかた》一同から、冷かされてるようなものだ、手持無沙汰《てもちぶさた》は無論である。ことさら今の自分に取っては心細い。のみならず袷《あわせ》一枚ではなはだ寒い。寒いのは、この五月の空に、かんかん炭を焼《た》いて獰猛共が囲炉裏《いろり》へあたってるんでも分る。自分は仕方がないからてれ[#「てれ」に傍点]隠《かく》しに襯衣《シャツ》の釦《ボタン》をはずして腋《わき》の下へ手を入れたり、膝《ひざ》を立てて、足の親指を抓《つね》って見たり、あるいは腿《もも》の所を両手で揉《も》んで見たり、いろいろやっていた。こう云う時に、落ついた顔をして――顔ばかりじゃいけない、心《しん》から落ちついて、平気で坐ってる修業をして置かないと、大きな損だ。しかし、十九や、そこいらではとうてい覚束《おぼつか》ない芸だから、自分はやむを得ず。前記の通りいろいろ馬鹿な真似《まね》をしていると、突然、
「おい」
と呼んだものがある。自分はこの時ちょうど下を向いて鳴海絞《なるみしぼり》の兵児帯《へこおび》を締め直していたが、この声を聞くや否や、電気仕掛の顔のように、首筋が急に釣った。見るとさっきの顔揃《かおぞろい》で、眼がみんなこっちを向いて、光ってる。「おい」と云う声は、どの顔から出たものか分らないが、どの顔から出たにしても大した変りはない。どの顔も獰猛《どうもう》で、よく見るとその獰猛のうちに、軽侮《あなどり》と、嘲弄《あざけり》と、好奇の念が判然と彫りつけてあったのは、首を上げる途端《とたん》に発明した事実で、発明するや否や、非常に不愉快に感じた事実である。自分は仕方がないから、首を上げたまま、「おい」の声がもう一遍出るのを待っていた。この間が約何秒かかったか知らないが、とにかく予期の状態で一定の姿勢におったものらしい。すると、いきなり、
「やに澄《す》ますねえ」
と云ったものがある。この声はさっきの「おい」よりも少し皺枯《しゃが》れていたから、大方別人だろうと鑑定した。しかし返答をするべき性質《たち》の言葉でないから――字で書くと普通のねえ[#「ねえ」に傍点]のように見えるが、実はなよ[#「なよ」に傍点]の命令を倶利加羅流《くりからりゅう》に崩《くず》したんだから、はなはだ下等である。――それでやっぱり黙ってた。ただ内心では大いに驚いた。自分がここへ来て言葉を交したものは原さんと婆さんだけであるが、婆さんは女だから別として、原さんは思ったよりも叮嚀《ていねい》であった。ところが原さんは飯場頭《はんばがしら》である
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