ている。しかもこの曇ったものが、いつ晴れると云う的《あて》もなく、ただ漠然《ばくぜん》と際限もなく行手に広がっている。いやしくも自分が生きている間は五十年でも六十年でも、いくら歩いても走《かけ》ても依然として広がっているに違いない。ああ、つまらない。歩くのはいたたまれないから歩くので、このぼんやりした前途を抜出すために歩くのではない。抜け出そうとしたって抜け出せないのは知れ切っている。
東京を立った昨夜《ゆうべ》の九時から、こう諦《あきらめ》はつけてはいるが、さて歩き出して見ると、歩きながら気が気でない。足も重い、松が厭《あ》きるほど行列している。しかし足よりも松よりも腹の中が一番苦しい。何のために歩いているんだか分らなくって、しかも歩かなくっては一刻も生きていられないほどの苦痛は滅多《めった》にない。
のみならず歩けば歩くほどとうてい抜ける事のできない曇った世界の中へだんだん深く潜《もぐ》り込んで行くような気がする。振り返ると日の照っている東京はもう代《よ》が違っている。手を出しても足を伸ばしても、この世では届かない。まるで娑婆《しゃば》が違う。そのくせ暖かな朗《ほがら》かな東京
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