ると、今まで長蔵さんが自分の過去や経歴について、ついぞ一《ひ》と口《くち》も自分に聞いた事がなかったのは、人を周旋する男の所為《しょい》としては、少しく無頓着《むとんじゃく》過ぎるようにも思われたが、この男は全くそんな事に冷淡な性《たち》であった事が後《あと》で分った。この時の質問は全く自分の無知に驚いた結果から出た好奇心に過ぎなかった。その証拠には自分が、
「東京です」
と答えたら、
「そうかい」
と云ったなり、あとは何にも聞かずに、自分を引っ張るようにして、ある横町を曲った。
実を云うと自分は相当の地位を有《も》ったものの子である。込み入った事情があって、耐《こら》え切れずに生家《うち》を飛び出したようなものの、あながち親に対する不平や面当《つらあて》ばかりの無分別《むふんべつ》じゃない。何となく世間が厭《いや》になった結果として、わが生家まで面白くなくなったと思ったら、もう親の顔も親類の顔も我慢にも見ていられなくなっていた。これは大変だと気がついて、根気に心を取り直そうとしたが、遅かった。踏み答えて見ようと百方に焦慮《あせ》れば焦慮るほど厭になる。揚句《あげく》の果《はて》は踏
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