「失礼ながら旅費のことなら、心配しなくっても好ござんす。どうかして上げますから」
 旅費は無論ない。一厘たりとも金気《かなけ》は肌に着いていない。のたれ死《じに》を覚悟の前でも、金は持ってる方が心丈夫だ。まして慢性の自滅で満足する今の自分には、たとい白銅一箇の草鞋銭《わらじせん》でも大切である。帰ると事がきまりさえすれば、頭を地に摺《す》りつけても、原さんから旅費を恵んで貰ったろう。実際こうなると廉恥《れんち》も品格もあったもんじゃない。どんな不体裁《ふていさい》な貰い方でもする。――大抵の人がそうなるだろう。またそうなってしかるべきである。――しかしけっして褒《ほ》められた始末じゃない。自分がこんな事を露骨にかくのは、ただ人間の正体を、事実なりに書くんで、書いて得意がるのとは訳が違う。人間の生地《きじ》はこれだから、これで差支《さしつかえ》ないなどと主張するのは、練羊羹《ねりようかん》の生地は小豆《あずき》だから、羊羹の代りに生《なま》小豆を噛《か》んでれば差支ないと結論するのと同じ事だ。自分はこの時の有様を思い出すたびに、なんで、あんな、さもしい料簡《りょうけん》になったものかと
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