考えずに置く。何しろ小僧は妙な顔をして、黒い山の天辺《てっぺん》を眺めていた。
 すると長蔵さんがまた聞き出した。
「御前、どこへ行くかね」
 小僧はたちまち黒い山から眼を離して、
「どこへも行きゃあしねえ」
と答えた。顔に似合わずすこぶる無愛想《ぶあいそう》である。長蔵さんは平気なもんで、
「じゃどこへ帰るかね」
と、聞き直した。小僧も平気なもんで、
「どこへも帰りゃしねえ」
と云ってる。自分はこの問答を聞きながら、ますます物騒な感じがした。この小僧は宿無《やどなし》に違ないんだが、こんなに小さい、こんなに淋しい、そうして、こんなに度胸の据《すわ》った宿無を、今までかつて想像した事がないものだから、宿無とは知りながら、ただの宿無に附属する憐《あわ》れとか気の毒とかの念慮よりも、物騒の方が自然勢力を得たしだいである。もっとも長蔵さんにはそんな感じは少しも起らなかったらしい。長蔵さんは、この小僧が宿無か宿無でないかを突き留めさえすれば、それでたくさんだったんだろう。どこへも行かない、またどこへも帰らない小僧に向って、
「じゃ、おいらといっしょにおいで。御金を儲《もう》けさしてやるから」
と云うと、小僧は考えもせず、すぐ、
「うん」
と承知した。赤毛布《あかげっと》と云い、小僧と云い、実に面白いように早く話が纏《まと》まってしまうには驚いた。人間もこのくらい簡単にできていたら、御互に世話はなかろう。しかしそう云う自分がこの赤毛布にもこの小僧にも遜《ゆず》らないもっとも世話のかからない一人であったんだから妙なもんだ。自分はこの小僧の安受合《やすうけあい》を見て、少からず驚くと共に、天下には自分のように右へでも左へでも誘われしだい、好い加減に、ふわつきながら、流れて行くものがだいぶんあるんだと云う事に気がついた。東京にいるときは、目眩《めまぐるし》いほど人が動いていても、動きながら、みんな根《ね》が生えてるんで、たまたま根が抜けて動き出したのは、天下広しといえども、自分だけであろうくらいで、千住から尻を端折《はしょ》って歩き出した。だから心細さも人一倍であったが、この宿《しゅく》で、はからずも赤毛布《あかげっと》を手に入れた。赤毛布を手に入れてから、二十分と立たないうちにまたこの小僧を手に入れた。そうして二人とも自分よりは遥《はるか》に根が抜けている。こう続々同志が出来てくると、行く先は山だろうが、河だろうが、あまり苦にはならない。自分は幸か不幸か、中以上の家庭に生れて、昨日《きのう》の午後九時までは申し分のない坊ちゃんとして生活していた。煩悶《はんもん》も坊ちゃんとしての煩悶であったのは勿論《もちろん》だが、煩悶の極《きょく》試みたこの駆落《かけおち》も、やっぱり坊ちゃんとしての駆落であった。さればこそ、この駆落に対して、不相当にもったいぶった意味をつけて、ありがたがらないまでも、一生の大事件のように考えていた。生死《しょうし》の分れ路のように考えていた。と云うものは坊ちゃんの眼で見渡した世の中には、駆落をしたものは一人もない。――たまにあれば新聞にあるばかりである。ところが新聞では駆落が平面になって、一枚の紙に浮いて出るだけで、云わばあぶり出しの駆落だから、食べたって身にはならない。あたかも別世界から、電話がかかったようなもので、はあ、はあ、と聞いてる分の事である。だから本当の意味で切実な駆落をするのは自分だけだと云うありがたみがつけ加わってくる。もっとも自分はただ煩悶して、ただ駆落をしたまでで、詩とか美文とか云うものを、あんまり読んだ事がないから、自分の境遇の苦しさ悲しさを一部の小説と見立てて、それから自分でこの小説の中を縦横《じゅうおう》に飛び廻って、大いに苦しがったりまた大いに悲しがったりして、そうして同時に自分の惨状を局外から自分と観察して、どうも詩的だなどと感心するほどなませた考えは少しもなかった。自分が自分の駆落に不相当なありがたみをつけたと云うのは、自分の不経験からして、さほど大袈裟《おおげさ》に考えないでも済む事を、さも仰山《ぎょうさん》に買い被《かぶ》って、独《ひと》りでどぎまぎしていた事実を指《さ》すのである。しかるにこのどぎまぎが赤毛布に逢《あ》い、小僧に逢って、両人《ふたり》の平然たる態度を見ると共に、いつの間にやら薄らいだのは、やっぱり経験の賜《たまもの》である。白状すると当時の赤毛布でも当時の小僧でも、当時の自分よりよっぽど偉かったようだ。
 こう手もなく赤毛布がかかる。小僧がかかる。そう云う自分も、たわいもなく攻め落された事実を綜合《そうごう》して考えて見ると、なるほど長蔵さんの商売も、満更《まんざら》待ち草臥《くたびれ》の骨折損になる訳でもなかった。坑夫になれますよ、はあ、なれますか、じゃなりましょ
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