方では何だか赤いものが動いている。長蔵さんの顔色を窺《うかが》うと、何でもこの赤いものを見詰めているらしい。この赤いものは無論人間である。が長蔵さんがなぜ立ち留ってこの赤い人間を覗《のぞ》き込むのか、とんと自分には分らなかった。人間には違ないが、ただ薄暗く赤いばかりで、顔つきなどは無論判然しやしない。がと思って、自分も不審かたがた立ち留っていると、やがて障子の奥から赤毛布《あかげっと》が飛び出した。いくら山里でも五月の空に毛布は無用だろうと云う人があるかも知れないが、実際この男は赤毛布で身を堅めていた。その代り下には手織の単衣《ひとえもの》一枚だけしきゃ着ていないんだから、つまり|〆《しめ》て見ると自分と大した相違はない事になる。もっとも単衣一枚で凌《しの》いでると云う事は、あとからの発見で、障子の影から飛び出した時にはただ赤いばかりであった。
すると長蔵さんは、いきなり、この赤い男の側《そば》へつかつかやって行って、
「お前さん、働く気はないかね」
と云った。自分が長蔵さんに捕《つか》まった時に聞かされた、第一の質問はやはり「働く気はないかね」であったから、自分はおやまた働かせる気かなと思って、少からぬ興味の念に駆《か》られながら二人を見物していた。その時この長蔵さんは、誰を見ても手頃な若い衆《しゅ》とさえ鑑定すれば、働く気はないかねと持ち掛ける男だと云う事を判然《はんぜん》と覚《さと》った。つまり長蔵さんは働かせる事を商売にするんで、けっして自分一人を非常な適任者と認めて、それで坑夫に推挙した訳ではなかった。おおかたどこで、どんな人に、幾人《いくたり》逢《あ》おうとも、版行《はんこう》で押したような口調で御前さん働く気はないかねを根気よく繰返し得る男なんだろう。考えると、よくこんな商売を厭《あ》きもせず、長の歳月《としつき》やられたものだ。長蔵さんだって、天性御前さん働く気はないかねに適した訳でもあるまい。やっぱり何かの事情やむを得ず御前さんを復習しているんだろう。こう思えば、まことに罪のない男である。要するに芸がないからほかの事は出来ないんだが、ほかの事が出来ないんだと意識して煩悶《はんもん》する気色《けしき》もなく、自分でなくっちゃ御前さん[#「御前さん」に傍点]をやり得る人間は天下広しといえども二人と有るまいと云うほどの平気な顔で、やっている。
その当時自分にこれだけの長蔵観《ちょうぞうかん》があったらだいぶ面白かったろうが、何しろ魂に逃げだされ損なっている最中だったから、なかなかそんな余裕は出て来なかった。この長蔵観は当時の自分を他人と見做《みな》して、若い時の回想を紙の上に写すただ今、始めて序《じょ》の節《せつ》に浮かんだのである。だからやッぱり紙の上だけで消えてなくなるんだろう。しかしその時その砌《みぎ》りの長蔵観と比較して見るとだいぶ違ってるようだ。――
自分は長蔵さんと赤毛布《あかげっと》の立談《たちばなし》を聞きながら、自分は長蔵さんから毫《ごう》も人格を認められていなかったと云う事を見出した。――もっとも人格はこの際少しおかしい。いやしくも東京を出奔《しゅっぽん》して坑夫にまでなり下がるものが人格を云々《うんぬん》するのは変挺《へんてこ》な矛盾である。それは自分も承知している。現に今筆を執《と》って人格と書き出したら、何となく馬鹿気《ばかげ》ていて、思わず噴《ふ》き出しそうになったくらいである。自分の過去を顧《かえり》みて噴き出しそうになる今の身分を、昔と比《くら》べて見ると実に結構の至りであるが、その時はなかなか噴き出すどころの騒ぎではなかった。――長蔵さんは明かに自分の人格を認めていなかった。
と云うのは、彼れはこの酒、めし、御肴《おんさかな》の裏《うち》から飛び出した若い男を捕《つら》まえて、第二世の自分であるごとく、全く同じ調子と、同じ態度と、同じ言語と、もっと立ち入って云えば、同じ熱心の程度をもって、同じく坑夫になれと勧誘している。それを自分はなぜだか少々|怪《け》しからんように考えた。その意味を今から説明して見ると、ざっとこんな訳なんだろう。――
坑夫は長蔵さんの云うごとくすこぶる結構な家業《かぎょう》だとは、常識を質に入れた当時の自分にももっともと思いようがなかった。まず牛から馬、馬から坑夫という位の順だから、坑夫になるのは不名誉だと心得ていた。自慢にゃならないと覚《さと》っていた。だから坑夫の候補者が自分ばかりと思《おもい》のほか突然居酒屋の入口から赤毛布になって、あらわれようとも別段神経を悩ますほどの大事件じゃないくらいは分りきってる。しかしこの赤毛布の取扱方が全然自分と同様であると、同様であると云う点に不平があるよりも、自分は全然赤毛布と一般な人間であると云う気になっちまう
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