引き込んでいくような気がする結果とも云われるし。日がだんだん傾《かたぶ》いて陰の方は蒼い山の上皮《うわかわ》と、蒼い空の下層《したがわ》とが、双方で本分を忘れて、好い加減に他《ひと》の領分を犯《おか》し合ってるんで、眺める自分の眼にも、山と空の区劃《くかく》が判然しないものだから、山から空へ眼が移る時、つい山を離れたと云う意識を忘却して、やはり山の続きとして空を見るからだとも云われる。そうしてその空は大変広い。そうして際限なく北へ延びている。そうして自分と長蔵さんは北へ行くんである。
 自分は昨夕《ゆうべ》東京を出て、千住《せんじゅ》の大橋まで来て、袷《あわせ》の尻を端折《はしょ》ったなり、松原へかかっても、茶店へ腰を掛けても、汽車へ乗っても、空脛《からすね》のままで押し通して来た。それでも暑いくらいであった。ところがこの町へ這入《はい》ってから何だか空脛では寒い気持がする。寒いと云うよりも淋しいんだろう。長蔵さんと黙って足だけを動かしていると、まるで秋の中を通り抜けてるようである。そこで自分はまた空腹になった。たびたび空腹になった事ばかりを書くのはいかがわしい事で、かつこの際空腹になっては、どうも詩的でないが、致し方がない。実際自分は空腹になった。家《うち》を出てから、ただ歩くだけで、人間の食うものを食わないから、たちまち空腹になっちまう。どんなに気分がわるくっても、煩悶《はんもん》があっても、魂が逃げ出しそうでも、腹だけは十分減るものである。いや、そう云うよりも、魂を落つけるためには飯を供えなくっちゃいけないと云い換えるのが適当かも知れない。品《ひん》の悪い話だが、自分は長蔵さんと並んで往来の真中を歩きながら、左右に眼をくばって、両側の飲食店を覗《のぞ》き込むようにして長い町を下《くだ》って行った。ところがこの町には飲食店がだいぶんある。旅屋《はたごや》とか料理屋とか云う上等なものは駄目としても、自分と長蔵さんが這入ってしかるべきやたいち[#「やたいち」に傍点]流《りゅう》のがあすこにもここにも見える。しかし長蔵さんは毫《ごう》も支度《したく》をしそうにない。最前の我多馬車《がたばしゃ》の時のように「御前さん夕食《ゆうめし》を食うかね」とも聞いてくれない。その癖自分と同じように、きょろきょろ両側に眼を配って何だか発見したいような気色《けしき》がありありと見える。自分は今に長蔵さんが恰好《かっこう》な所を見つけて、晩食《ばんめし》をしたために自分を連れ込む事と自信して、気を永く辛抱しながら、長い町を北へ北へと下って行った。
 自分は空腹を自白したが、倒れるほどひもじくは無かった。胃の中にはまだ先刻《さっき》の饅頭《まんじゅう》が多少残ってるようにも感ぜられた。だから歩けば歩かれる。ただ汽車を下りるや否や滅《め》り込《こ》みそうな精神が、真直《まっすぐ》な往来の真中に抛《ほう》り出されて、おやと眼を覚したら、山里の空気がひやりと、夕日の間から皮膚を冒《おか》して来たんで、心機一転の結果としてここに何か食って見たくなったんである。したがって食わなければ食わないでも済む。長蔵さん何か食わしてくれませんかと云うほど苦しくもなかった。しかし何だか口が淋《さび》しいと見えて、しきりに縄暖簾《なわのれん》や、お|煮〆《にしめ》や、御中食所《おちゅうじきどころ》が気にかかる。相手の長蔵さんがまた申し合せたように右左と覗《のぞ》き込むので、こっちはますます食意地《くいいじ》が張ってくる。自分はこの長い町を通りながら、自分らに適当と思う程度の一膳《いちぜん》めし屋をついに九軒まで勘定した。数えて九軒目に至ったら、さしもに長い宿《しゅく》はとうとうおしまいになり掛けて、もう一町も行けば宿外《しゅくはず》れへ出抜《ずぬ》けそうである。はなはだ心細かった。時にふと右側を見ると、また酒めしと云う看板に逢着《ほうちゃく》した。すると自分の心のうちにこれが最後だなと云う感じが起った。それがためか煤《すす》けた軒の腰障子《こししょうじ》に、肉太に認《したた》めた酒めし[#「酒めし」に傍点]、御肴[#「御肴」に傍点]と云う文字がもっとも劇烈な印象をもって自分の頭に映じて来た。その映じた文字がいまだに消えない。酒の字でも、めし[#「めし」に傍点]の字でも、御肴《おんさかな》の字でもありあり見える。この様子では、いくら耄碌《もうろく》してもこの五字だけは、そっくりそのまま、紙の上に書く事が出来るだろう。
 自分が最後の酒、めし、御肴をしみじみ見ていると、不思議な事に長蔵さんも一生懸命に腰障子の方に眼をつけている。自分はさすが頑強《がんきょう》の長蔵さんも今度こそ食いに這入《はい》るに違なかろうと思った。ところが這入らない。その代りぴたりと留った。見ると腰障子の奥の
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