るのと、が一度に合併して、すべて動揺の状態に世の中を崩《くず》し始めて来た、自分は自分の周囲のものが、ことごとく活動しかけるのを自覚していた。自覚すると共に、自分は普通の人間と違って、みんなが活動する時分でさえ、他《ひと》に釣り込まれて気分が動いて来ないような仲間|外《はず》れだと考えた。袖《そで》が触《す》れ違って、膝《ひざ》を突き合せていながらも、魂だけはまるで縁も由緒《ゆかり》もない、他界から迷い込んだ幽霊のような気持であった。今までは、どうか、こうか、人並に調子を取って来たのが汽車が留まるや否や、世間は急に陽気になって上へ騰《あが》る。自分は急に陰気になって下へ降《さが》る、とうてい交際《つきあい》はできないんだと思うと、背中と胸の厚さがしゅうと減って、臓腑《ぞうふ》が薄《うす》っ片《ぺら》な一枚の紙のように圧《お》しつけられる。途端に魂だけが地面の下へ抜け出しちまった。まことに申訳のない、御恥ずかしい心持ちをふらつかせて、凹《へこ》んでいた。
 ところへ長蔵さんが、立って来て、
「御前さん、まだ眼が覚めないかね。ここから降りるんだよ」
と注意してくれた。それでようやくなるほどと気がついて立ち上った。魂が地の底へ抜け出して行く途中でも、手足に血が通《かよ》ってるうちは、呼ぶと返って来るからおかしなものだ。しかしこれがもう少し烈《はげ》しくなると、なかなか思うように魂が身体《からだ》に寄りついてくれない。その後《ご》台湾沖で難船した時などは、ほとんど魂に愛想《あいそ》を尽かされて、非常な難義をした事がある。何《なん》にでも上には上があるもんだ。これが行き留りだの、突き当りだのと思って、安心してかかると、とんだ目に逢う。しかしこの時はこの心持が自分に取ってもっとも新しくて、しかもはなはだ苦《にが》い経験であった。
 長蔵さんのどてら[#「どてら」に傍点]の尻を嗅《か》ぎながら改札場から表へ出ると、大きな宿《しゅく》の通りへ出た。一本筋の通りだが存外広い、ばかりではない、心持の判然《はっきり》するほど真直《まっすぐ》である。自分はこの広い往還《おうかん》の真中に立って遥《はる》か向うの宿外《しゅくはずれ》を見下《みおろ》した。その時一種妙な心持になった。この心持ちも自分の生涯《しょうがい》中にあって新らしいものであるから、ついでにここに書いて置く。自分は肺の底が抜けて魂が逃げ出しそうなところを、ようやく呼びとめて、多少人間らしい了簡《りょうけん》になって、宿の中へ顔を出したばかりであるから、魂が吸《ひ》く息につれて、やっと胎内に舞い戻っただけで、まだふわふわしている。少しも落ちついていない。だからこの世にいても、この汽車から降りても、この停車場《ステーション》から出ても、またこの宿の真中に立っても、云わば魂がいやいやながら、義理に働いてくれたようなもので、けっして本気の沙汰《さた》で、自分の仕事として引き受けた専門の職責とは心得られなかったくらい、鈍《にぶ》い意識の所有者であった。そこで、ふらついている、気の遠くなっている、すべてに興味を失った、かなつぼ眼《まなこ》を開いて見ると、今までは汽車の箱に詰め込まれて、上下四方とも四角に仕切られていた限界が、はっと云う間《ま》に、一本筋の往還を沿うて、十丁ばかり飛んで行った。しかもその突当りに滴《したた》るほどの山が、自分の眼を遮《さえぎ》りながらも、邪魔にならぬ距離を有《たも》って、どろんとしたわが眸《ひとみ》を翠《みどり》の裡《うち》に吸寄せている。――そこで何んとなく今云ったような心持になっちまったのである。
 第一には大道砥《だいどうと》のごとしと、成語にもなってるくらいで、平たい真直な道は蟠《わだか》まりのない爽《さわやか》なものである。もっと分り安く云うと、眼を迷《まご》つかせない。心配せずにこっちへ御出《おいで》と誘うようにでき上ってるから、少しも遠慮や気兼《きがね》をする必要がない。ばかりじゃない。御出と云うから一本筋の後《あと》を喰ッついて行くと、どこまでも行ける。奇体な事に眼が横町へ曲りたくない。道が真直に続いていればいるほど、眼も真直に行かなくっては、窮屈でかつ不愉快である。一本の大道は眼の自由行動と平行して成り上ったものと自分は堅く信じている。それから左右の家並《いえなみ》を見ると、――これは瓦葺《かわらぶき》も藁葺《わらぶき》もあるんだが――瓦葺だろうが、藁葺だろうが、そんな差別はない。遠くへ行けば行くほどしだいしだいに屋根が低くなって、何百軒とある家が、一本の針金で勾配《こうばい》を纏《まと》められるために向うのはずれからこっちまで突き通されてるように、行儀よく、斜《はす》に一筋を引っ張って、どこまでも進んでいる。そうして進めば進むほど、地面に近寄ってく
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