だ」
「うんそれから」
「後《あと》で泥棒が贋銭と気がついて、あすこの亭主は贋銭|使《つかい》だ贋銭使だって方々振れて歩くんだ。常公《つねこう》の前《めえ》だが、どっちが罪が重いと思う」
「どっちたあ」
「その亭主と泥棒がよ」
「そうさなあ」
と相手は解決に苦しんでいる。自分は眠《ねぶ》くなったから、窓の所へ頭を持たしてうとうとした。
 寝ると急に時間が無くなっちまう。だから時間の経過が苦痛になるものは寝るに限る。死んでもおそらく同じ事だろう。しかし死ぬのは、やさしいようでなかなか容易でない。まず凡人は死ぬ代りに睡眠で間に合せて置く方が軽便である。柔道をやる人が、時々|朋友《ほうゆう》に咽喉《のど》を締めて貰う事がある。夏の日永《ひなが》のだるい時などは、絶息したまま五分も道場に死んでいて、それから活《かつ》を入れさせると、生れ代るような好い気分になる――ただし人の話だが。――自分は、もしや死にっきりに死んじまやしないかと云う神経のために、ついぞこの荒療治《あらりょうじ》を頼んだ事がない。睡眠はこれほどの効験もあるまいが、その代り生き戻り損《そこな》う危険も伴《ともな》っていないから、心配のあるもの、煩悶《はんもん》の多いもの、苦痛に堪《た》えぬもの、ことに自滅の一着として、生きながら坑夫になるものに取っては、至大なる自然の賚《たまもの》である。その自然の賚が偶然にも今自分の頭の上に落ちて来た。ありがたいと礼を云う閑《ひま》もないうちに、うっとりとしちまって、生きている以上は是非共その経過を自覚しなければならない時間を、丸潰《まるつぶ》しに潰していた。ところが眼《め》が覚《さ》めた。後から考えて見たら、汽車の動いてる最中に寝込《ねこ》んだもんだから、汽車の留ったために、眠りが調子を失ってどこかへ飛んで行ったのである。自分は眠っていると、時間の経過だけは忘れているが、空間の運動には依然として反応を呈する能力があるようだ。だから本当に煩悶を忘れるためにはやはり本当に死ななくっては駄目だ。ただし煩悶がなくなった時分には、また生き返りたくなるにきまってるから、正直に理想を云うと、死んだり生きたり互違《たがいちがい》にするのが一番よろしい。――こんな事をかくと、何だか剽軽《ひょうきん》な冗談《じょうだん》を云ってるようだがけっしてそんな浮いた了見《りょうけん》じゃない。本気に真面目《まじめ》を話してるつもりである。その証拠にはこの理想はただ今過去を回想して、面白半分興に乗じて、好い加減につけ加えたんじゃない。実際汽車が留って、不意に眼が覚めた時、この通りに出て来たのである。馬鹿気《ばかげ》た感じだから滑稽《こっけい》のように思われるけれどもその時は正直にこんな馬鹿気た感じが起ったんだから仕方がない。この感じが滑稽に近ければ近いほど、自分は当時の自分を可愛想《かわいそう》に思うのである。こんな常識をはずれた希望を、真面目《まじめ》に抱《いだ》かねばならぬほど、その時の自分は情《なさけ》ない境遇におったんだと云う事が判然するからである。
 自分がふと眼を開けると、汽車はもう留っていた。汽車が留まったなと云う考えよりも、自分は汽車に乗っていたんだなと云う考えが第一に起った。起ったと思うが早いか、長蔵さんがいるんだ、坑夫になるんだ、汽車賃がなかったんだ、生家《うち》を出奔《しゅっぽん》したんだ、どうしたんだ、こうしたんだとまるで十二三のたんだ[#「たんだ」に傍点]がむらむらと塊《かた》まって、頭の底から一度に湧《わ》いて来た。その速い事と云ったら、言語《ごんご》に絶すると云おうか、電光石火と評しようか、実に恐ろしいくらいだった。ある人が、溺《おぼ》れかかったその刹那《せつな》に、自分の過去の一生を、細大《さいだい》漏らさずありありと、眼の前に見た事があると云う話をその後《のち》聞いたが、自分のこの時の経験に因《よ》って考えると、これはけっして嘘じゃなかろうと思う。要するにそのくらい早く、自分は自分の実世界における立場と境遇とを自覚したのである。自覚すると同時に、急に厭《いや》な心持になった。ただ厭では、とても形容が出来ないんだが、さればと云って、別に叙述しようもない心持ちだからただの厭でとめて置く。自分と同じような心持ちを経験した人ならば、ただこれだけで、なるほどあれだなと、直《すぐ》勘《かん》づくだろう。また経験した事がないならば、それこそ幸福だ、けっして知るに及ばない。
 その内同じ車室に乗っていたものが二三人立ち上がる。外からも二三人|這入《はい》って来る。どこへ陣取ろうかと云う眼つきできょろきょろするのと、忘れものはないかと云う顔つきでうろうろするのと、それから何の用もないのに姿勢を更《か》えて窓へ首を出したり、欠伸《あくび》をしたりす
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