ら仕方がない。またこう書けばこそ下らなくなるが、その当時のぼんやりした意気込《いきごみ》を、ぼんやりした意気込のままに叙したなら、これでも小説の主人公になる資格は十分あるんだろうと考える。
 それでなくっても実際その当時の、二人の少女の有様やら、日《ひ》ごとに変る局面の転換やら、自分の心配やら、煩悶やら、親の意見や親類の忠告やら、何やらかやらを、そっくりそのまま書き立てたら、だいぶん面白い続きものができるんだが、そんな筆もなし時もないから、まあやめにして、せっかくの坑夫事件だけを話す事にする。
 とにかくこう云う訳で自分はいよいよとなって出奔《しゅっぽん》したんだから、固《もと》より生きながら葬《ほうぶ》られる覚悟でもあり、また自《みずか》ら葬ってしまう了簡《りょうけん》でもあったが、さすがに親の名前や過去の歴史はいくら棄鉢《すてばち》になっても長蔵さんには話したくなかった。長蔵さんばかりじゃない、すべての人間に話したくなかった。すべての人間は愚か、自分にさえできる事なら語りたくないほど情《なさけ》ない心持でひょろひょろしていた。だから長蔵さんが人を周旋する男にも似合わず、自分の身元について一言《いちごん》も聞き糺《ただ》さなかったのは、変と思いながらも、内々嬉しかった。本当を云うと、当時の自分はまだ嘘《うそ》をつく事をよく練習していなかったし、ごまかすと云う事は大変な悪事のように考えていたんだから、聞かれたら定めし困ったろうと思う。
 そこで長蔵さんに尾《つ》いて、横町を曲って行くと、一二丁行ったか行かないうちに町並が急に疎《まばら》になって、所々は田圃《たんぼ》の片割れが細く透いて見える。表はあんなに繁昌しても、繁昌は横幅だけであるなと気がついたら、また急に横町を曲らせられて、また賑《にぎや》かな所へ出された。その突当りが停車場《ステーション》であった。汽車に乗らなくっては坑夫になる手続きが済まないんだと云う事をこの時ようやく知った。実は鉱山の出張所でもこの町にあって、まずそこへ連れて行かれて、そこからまた役人が山へでも護送してくれるんだろうと思っていた。
 そこで停車場へ這入《はい》る五六間手間になってから、
「長蔵さん、汽車に乗るんですか」
と後《うしろ》から、呼び掛けながら聞いて見た。自分がこの男を長蔵さんと云ったのはこの時が始めてである。長蔵さんはちょっと振り返ったが、あかの他人から名前を呼ばれたのを不審がる様子もなく、すぐ、
「ああ、乗るんだよ」
と答えたなり、停車場に這入った。
 自分は停車場《ステーション》の入口に立って考え出した。あの男はいったい自分といっしょに汽車へ乗って先方《さき》まで行く気なんだろうか、それにしては余り親切過ぎる。なんぼなんでも見ず知らずの自分にこう叮嚀《ていねい》な世話を焼くのはおかしい。ことによると彼奴《あいつ》は詐欺師《かたり》かも知れない。自分は下らん事に今更のごとくはっと気がついて急に汽車へ乗るのが厭《いや》になって来た。いっその事また停車場を飛び出そうかしらと思って、今までプラットフォームの方を向いていた足を、入口の見当《けんとう》に向け易えた。しかしまだ歩き出すほどの決心もつかなかったと見えて、茫然《ぼうぜん》として、停車場前の茶屋の赤い暖簾《のれん》を眺《なが》めていると、いきなり大きな声を出して遠くから呼びとめられた。自分はこの声を聞くと共に、その所有者は長蔵さんであって、松原以来の声であると云う事を悟った。振り返ると、長蔵さんは遠方から顔だけ斜《はす》に出して、しきりにこちらを見て、首を竪《たて》に振っている。何でも身体《からだ》は便所の塀《へい》にかくれているらしい。せっかく呼ぶものだからと思って、自分は長蔵さんの顔を目的《めあて》に歩いて行くと、
「御前さん、汽車へ乗る前にちょっと用を足したら善かろう」
と云う。自分はそれには及ばんから、一応辞退して見たが、なかなか承知しそうもないから、そこで長蔵さんと相並んで、きたない話だが、小便を垂れた。その時自分の考えはまた変った。自分は身体よりほかに何にも持っていない。取られようにも瞞《かた》られようにも、名誉も財産もないんだから初手《しょて》から見込の立たない代物《しろもの》である。昨日《きのう》の自分と今日の自分とを混同して、長蔵さんを恐ろしがったのは、免職になりながら俸給の差《さ》し押《おさえ》を苦にするようなものであった。長蔵さんは教育のある男ではあるまいが、自分の風体《ふうてい》を見て一目《いちもく》騙《かた》るべからずと看破するには教育も何も要《い》ったものではない。だからことによると、自分を坑夫に周旋して、あとから周旋料でも取るんだろうと思い出した。それならそれで構わない。給料のうちを幾分かやれば済む事だな
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