張《ふんばり》の栓《せん》が一度にどっと抜けて、堪忍《かんにん》の陣立が総崩《そうくず》れとなった。その晩にとうとう生家を飛び出してしまったのである。
 事の起りを調べて見ると、中心には一人の少女がいる。そうしてその少女の傍《そば》にまた一人の少女がいる。この二人の少女の周囲《まわり》に親がある。親類がある。世間が万遍なく取り捲《ま》いている。ところが第一の少女が自分に対して丸くなったり、四角になったりする。すると何かの因縁《いんねん》で自分も丸くなったり四角になったりしなくっちゃならなくなる。しかし自分はそう丸くなったり四角になったりしては、第二の少女に対して済まない約束をもって生れて来た人間である。自分は年の若い割には自分の立場をよく弁別《わきま》えていた。が済まないと思えば思うほど丸くなったり四角になったりする。しまいには形態ばかりじゃない組織まで変るようになって来た。それを第二の少女が恨《うら》めしそうに見ている。親も親類も見ている。世間も見ている。自分は自分の心が伸びたり縮んだり、曲ったりくねったりするところを、どうかして隠そうと力《つと》めたが、何しろ第一の少女の方で少しもやめてくれないで、むやみに伸びて見せたり、縮んで見せたりするもんだから、隠し終《おお》せる段じゃない。親にも親類にも目《め》つかってしまった。怪《け》しからんと云う事になった。怪しかるとは自分でも思っていなかったが、だんだん聞き糾《ただ》して見ると、怪しからん意味がだいぶ違ってる。そこでいろいろ弁解して見たがなかなか聞いてくれない。親の癖に自分の云う事をちっとも信用しないのが第一不都合だと思うと同時に、第一の少女の傍《そば》にいたら、この先どうなるか分らない、ことに因《よ》ると実際弁解の出来ないような怪しからん事が出来《しゅったい》するかも知れないと考え出した。がどうしても離れる事が出来ない。しかも第二の少女に対しては気の毒である、済まん事になったと云う念が日々《にちにち》烈《はげ》しくなる。――こんな具合で三方四方から、両立しない感情が攻め寄せて来て、五色の糸のこんがらかったように、こっちを引くと、あっちの筋が詰る、あっちをゆるめるとこっちが釣れると云う按排《あんばい》で、乱れた頭はどうあっても解《ほど》けない。いろいろに工夫を積んで自分に愛想《あいそ》の尽きるほどひねくって見たが、とうてい思うように纏《まと》まらないと云う一点張《いってんばり》に落ちて来た時に――やっと気がついた。つまり自分が苦しんでるんだから、自分で苦みを留めるよりほかに道はない訳だ。今までは自分で苦しみながら、自分以外の人を動かして、どうにか自分に都合のいいような解決があるだろうと、ひたすらに外のみを当《あて》にしていた。つまり往来で人と行き合った時、こっちは突ッ立ったまま、向うが泥濘《ぬかるみ》へ避《よ》けてくれる工面《くめん》ばかりしていたのだ。こっちが動かない今のままのこっちで、それで相手の方だけを思う通りに動かそうと云う出来ない相談を持ち懸《か》けていたのだ。自分が鏡の前に立ちながら、鏡に写る自分の影を気にしたって、どうなるもんじゃない。世間の掟《おきて》という鏡が容易に動かせないとすると、自分の方で鏡の前を立ち去るのが何よりの上分別である。
 そこで自分はこの入り組んだ関係の中から、自分だけをふいと煙《けむ》にしてしまおうと決心した。しかし本当に煙にするには自殺するよりほかに致し方がない。そこでたびたび自殺をしかけて見た。ところが仕掛けるたんびにどきんとしてやめてしまった。自殺はいくら稽古《けいこ》をしても上手にならないものだと云う事をようやく悟った。自殺が急に出来なければ自滅するのが好かろうとなった。しかし自分は前に云う通り相当の身分のある親を持って朝夕に事を欠かぬ身分であるから生家《うち》にいては自滅しようがない。どうしても逃亡《かけおち》が必要である。
 逃亡《かけおち》をしてもこの関係を忘れる事は出来まいとも考えた。また忘れる事が出来るだろうとも考えた。要するに、して見なければ分らないと考えた。たとい煩悶《はんもん》が逃亡につき纏《まと》って来るにしてもそれは自分の事である。あとに残った人は自分の逃亡のために助かるに違いないと考えた。のみならず逃亡をしたって、いつまでも逃亡《かけお》ちている訳じゃない。急に自滅がしにくいから、まずその一着として逃亡ちて見るんである。だから逃亡ちて見てもやっぱり過去に追われて苦しいようなら、その時|徐《おもむろ》に自滅の計《はかりごと》を廻《めぐ》らしても遅くはない。それでも駄目ときまればその時こそきっと自殺して見せる。――こう書くと自分はいかにも下らない人間になってしまうが、事実を露骨に云うとこれだけの事に過ぎないんだか
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