》人に公言したために、やらないでも済む事、やってはならない事を毎度やった。人に公言すると、しないのとは大変な違があるもんだ。その内かあんかあんがやんだ。坑夫はまた自分の前まで来て、胡坐《あぐら》をかきながら、
「ちょっと待ちねえ。一服やるから」
と、煙草入《たばこいれ》を取り出した。茶色の、皮か紙か判然しないもので、股引《ももひき》に差し込んである上から筒袖《つつっぽう》が被《かぶ》さっていた。坑夫は旨《うま》そうに腹の底まで吸った煙《けむ》を、鼻から吹き出している間《ま》に、短い羅宇《らお》の中途を、煙草入の筒でぽんと払《はた》いた。小さい火球《ひだま》が雁首《がんくび》から勢いよく飛び出したと思ったら、坑夫の草鞋《わらじ》の爪先《つまさき》へ落ちてじゅうと消えた。坑夫は殻《から》になった煙管《きせる》をぷっと吹く。羅宇の中に籠《こも》った煙が、一度に雁首から出た。坑夫はその時始めて口を利《き》いた。
「御前《おめえ》はどこだ。こんな所へ全体何しに来た。身体《からだ》つきは、すらりとしているようだが。今まで働いた事はねえんだろう。どうして来た」
「実は働いた事はないんです。が少し事情があって、来たんです。……」
とまでは云ったが、坑夫には愛想が尽きたから、もう、帰るんだとは云わなかった。死ぬんだとはなおさら云わなかった。しかし今までのように、腹の内《なか》で畜生あつかいにして、口先ばかり叮嚀《ていねい》にしていたのとはだいぶん趣《おもむき》が違う。自分はただ洗い攫《ざら》い自分の思わくを話してしまわないだけで、話しただけは真面目に話したんである。すこしも裏表はない。腹から叮嚀《ていねい》に答えた。坑夫はしばらくの間黙って雁首を眺《なが》めていた。それからまた煙草を詰めた。煙が鼻から出だした真最中に口を開《ひら》いた。
 自分がその時この坑夫の言葉を聞いて、第一に驚いたのは、彼の教育である。教育から生ずる、上品な感情である。見識である。熱誠である。最後に彼の使った漢語である。――彼《か》れは坑夫などの夢にも知りようはずがない漢語を安々と、あたかも家庭の間で昨日《きのう》まで常住坐臥《じょうじゅうざが》使っていたかのごとく、使った。自分はその時の有様をいまだに眼の前に浮べる事がある。彼れは大きな眼を見張ったなり、自分の顔を熟視したまま、心持|頸《くび》を前の方に出して、胡坐の膝《ひざ》へ片手を逆《ぎゃく》に突いて、左の肩を少し聳《そびやか》して、右の指で煙管を握って、薄い唇《くちびる》の間から奇麗《きれい》な歯を時々あらわして、――こんな事を云った。句の順序や、単語の使い方は、たしかな記憶をそのまま写したものである。ただ語声だけはどうしようもない。――
「亀の甲より年の功と云うことがあるだろう。こんな賤《いや》しい商売はしているが、まあ年長者の云う事だから、参考に聞くがいい。青年は情《じょう》の時代だ。おれも覚《おぼえ》がある。情の時代には失敗するもんだ。君もそうだろう。己《おれ》もそうだ。誰でもそうにきまってる。だから、察している。君の事情と己《おれ》の事情とは、どのくらい違うか知らないが、何しろ察している。咎《とが》めやしない。同情する。深い事故《わけ》もあるだろう。聞いて相談になれる身体《からだ》なら聞きもするが、シキ[#「シキ」に傍点]から出られない人間じゃ聞いたって、仕方なし、君も話してくれない方がいい。おれも……」
と云い掛けた時、自分はこの男の眼つきが多少異様にかがやいていたと云う事に気がついた。何だか大変感じている。これが当人の云うごとくシキ[#「シキ」に傍点]を出られないためか、または今云い掛けたおれも[#「おれも」に傍点]の後へ出て来る話のためか、ちょっと分りにくいが、何しろ妙な眼だった。しかもこの眼が鋭く自分をも見詰めている。そうしてその鋭いうちに、懐旧《かいきゅう》と云うのか、沈吟《ちんぎん》と云うのか、何だか、人を引きつけるなつかしみがあった。この黒い坑《あな》の中で、人気《ひとけ》はこの坑夫だけで、この坑夫は今や眼だけである。自分の精神の全部はたちまちこの眼球《めだま》に吸いつけられた。そうして彼の云う事を、とっくり聞いた。彼はおれも[#「おれも」に傍点]を二遍繰り返した。
「おれも、元は学校へ行った。中等以上の教育を受けた事もある。ところが二十三の時に、ある女と親しくなって――詳しい話はしないが、それが基《もと》で容易ならん罪を犯した。罪を犯して気がついて見ると、もう社会に容《い》れられない身体《からだ》になっていた。もとより酔興《すいきょう》でした事じゃない、やむを得ない事情から、やむを得ない罪を犯したんだが、社会は冷刻なものだ。内部の罪はいくらでも許すが、表面の罪はけっして見逃《みのが》さない。
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