れないのがもっとも邪魔になる。この邪魔ものの一局部へ頭を擲《たた》きつけて、せめて罅《ひび》でも入らしてやろうと――やらないまでも時々思うのは、早く華厳《けごん》の瀑《たき》へ行きたいからであった。そうこうしているうちに、向うから一人の掘子《ほりこ》が来た。ばらの銅《あかがね》をスノコ[#「スノコ」に傍点]へ運ぶ途中と見えて例の箕《み》を抱《だ》いてよちよちカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を揺《ゆ》りながら近づいた。この灯を見つけた時は、嬉しくって胸がどきりと飛び上がった。もう大丈夫と勇んで近寄って行くと、近寄るがものはない、向うでもこっちへ歩いて来る。二つのカンテラ[#「カンテラ」に傍点]が一間ばかりの距離に近寄った時、待ち受けたように、自分は掘子の顔を見た。するとその顔が非常な蒼《あお》ん蔵《ぞう》であった。この坑のなかですら、只事《ただごと》とは受取れない蒼ん蔵である。あかるみへ出して、青い空の下で見たら、大変な蒼ん蔵に違《ちがい》ない。それで口を利《き》くのが厭《いや》になった。こんな奴の癖に人に調戯《からか》ったり、嬲《なぶ》ったり、辱《はずか》しめたりするのかと思ったら、なおなお道を聞くのが厭《いや》になった。死んだって一人で出て見せると云う気になった。手前共に口を聞くような安っぽい男じゃないと、腹の中でたしかに申し渡して擦《す》れ違った。向うは何にも知らないから、これは無論だまって擦れ違った。行く先は暗くなった。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]は一つになった。気はますます焦慮《いら》って来た。けれどもなかなか出ない。ただ道はどこまでもある。右にも左にもある。自分は右にも這入った、また左にも這入った、また真直にも歩いて見た。しかし出られない。いよいよ出られないのかと、少しく途方に暮れている鼻の先で、かあんかあんと鳴り出した。五六歩で突き当って、折れ込むと、小さな作事場があって、一人の坑夫がしきりに槌《つち》を振り上げて鑿《のみ》を敲《たた》いている。敲くたんびに鉱《あらがね》が壁から落ちて来る。その傍《そば》に俵がある。これはさっきスノコ[#「スノコ」に傍点]へ投げ込んだ俵と同じ大きさで、もういっぱい詰っている。掘子《ほりこ》が来て担《かつ》いで行くばかりだ。自分は今度こそこいつに聞いてやろうと思った。が肝心《かんじん》の本人が一生懸命にかあんかあん鳴らしている。おまけに顔もよく見えない。ちょうどいいから少し休んで行こうと云う気が起った。幸い俵がある。この上へ尻をおろせば、持って来いの腰掛になる。自分はどさっとアテシコ[#「アテシコ」に傍点]を俵の上に落した。すると突然かあんかあんがやんだ。坑夫の影が急に長く高くなった。鑿《のみ》を持ったままである。
「何をしやがるんでい」
 鋭い声が穴いっぱいに響いた。自分の耳には敲《たた》き込まれるように響いた。高い影は大股に歩いて来る。
 見ると、足の長い、胸の張った、体格の逞《たくま》しい男であった。顔は背の割に小さい。その輪廓《りんかく》がやや判然する所まで来て、男は留まった。そうして自分を見下《みおろ》した。口を結んでいる。二重瞼《ふたえまぶた》の大きな眼を見張っている。鼻筋が真直《まっすぐ》に通っている。色が赭黒《あかぐろ》い。ただの坑夫ではない。突然として云った。
「貴様は新前《しんめえ》だな」
「そうです」
 自分の腰はこの時すでに俵を離れていた。何となく、向うから近づいてくる坑夫が恐ろしかった。今まで一万余人の坑夫を畜生のように軽蔑《けいべつ》していたのに、――誓って死んでしまおうと覚悟をしていたのに、――大股に歩いて来た坑夫がたちまち恐ろしくなった。しかし、
「何でこんな所を迷子《まご》ついてるんだ」
と聞き返された時には、やや安心した。自分の様子を見て、故意に俵の上へ腰をおろしたんでないと見極《みきわ》めた語調である。
「実は昨夕《ゆうべ》飯場《はんば》へ着いて、様子を見に坑《あな》へ這入《はい》ったばかりです」
「一人でか」
「いいえ、飯場頭《はんばがしら》から人をつけてくれたんですが……」
「そうだろう、一人で這入れる所じゃねえ。どうしたその案内は」
「先へ出ちまいました」
「先へ出た? 手前《てめえ》を置き去りにしてか」
「まあ、そうです」
「太《ふて》え野郎だ。よしよし今に己《おれ》が送り出してやるから待ってろ」
と云ったなり、また鑿《のみ》と槌《つち》をかあんかあん鳴らし始めた。自分は命令の通り待っていた。この男に逢《あ》ったら、もう一人で出る気がなくなった。死んでも一人で出て見せると威張った決心が、急にどこへか行ってしまった。自分はこの変化に気がついていた。それでも別に恥かしいとも思わなかった。人に公言した事でないから構わないと思った。その後《ご
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