の顔を見たんである。よくはわからない顔であった。一人の男は頬骨《ほおぼね》の一点と、小鼻の片傍《かたわき》だけが、灯《ひ》に映った。次の男は額と眉《まゆ》の半分に光が落ちた。残る一人は総体にぼんやりしている。ただ自分の持っていた、カンテラ[#「カンテラ」に傍点]を四五尺手前から真向《まっこう》に浴びただけである。――三人はこの姿勢で、ぎろりと眼を据《す》えた。自分の方に。
 ようやく人間に逢《あ》って、やれ嬉《うれ》しやと思った自分は、この三|対《つい》の眼球《めだま》を見るや否や、思わずぴたりと立ち留った。
「手前《てめえ》は……」
と云い掛けて、一人が言葉を切った。残る二人はまだ口を開《ひら》かない。自分も立ち留まったなり、答えなかった。――答えられなかった。すると
「新《しん》めえだ」
と、初さんが、威勢のいい返事をしてくれた。本当のところを白状すると、三人の眼球が光って、「手前は……」と聞かれた時は、初さんの傍《そば》にいる事も忘れて、ただおやっと思った。立すくむと云うのはこれだろう。立ちすくんで、硬《かた》くこわ張り掛けたところへ「新めえだ」と云う声がした。この声が自分の左の耳の、つい後《うしろ》から出て、向うへ通り抜けた時、なるほど初さんがついてたなと思い出した。それがため、こわ張りかけた手足も、中途でもとへ引き返した。自分は一歩|傍《わき》へ退《の》いた。初さんに前へ出てもらうつもりであった。初さんは注文通り出た。
「相変らずやってるな」
とカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を提《さ》げたまま、上から三人の真中に転がってる、壺と賽を眺《なが》めた。
「どうだ仲間入は」
「まあよそう。今日は案内だから」
と初さんは取り合わなかった。やがて、四《よ》つや丸太《まるた》の上へうんとこしょと腰をおろして、
「少し休んで行くかな」
と自分の方を見た。立ちすくむまで恐ろしかった、自分は急に嬉しくなって元気が出て来た。初さんの側《そば》へ腰をおろす。アテシコ[#「アテシコ」に傍点]の利目《ききめ》は、ここで始めて分った。旨《うま》い具合に尻が乗って、柔らかに局部へ応《こた》える。かつ冷えないで、結構だ。実はさっきから、眼が少し眩《く》らんで――眩らんだか、眩らまないんだか、坑《あな》の中ではよく分らないが、何しろ好い気持ではなかったが、こう尻を掛けて落ちつくと、大きに楽《らく》になる。四人《よつたり》がいろいろな話をしている。
「広本《ひろもと》へは新らしい玉《たま》が来たが知ってるか」
「うん、知ってる」
「まだ、買わねえか」
「買わねえ、お前《めえ》は」
「おれか。おれは――ハハハハ」
と笑った。これは這入《はい》って来た時、顔中ぼんやり見えた男である。今でもぼんやり見える。その証拠には、笑っても笑わなくっても、顔の輪廓《りんかく》がほとんど同じである。
「随分手廻しがいいな」
と初さんもいささか笑っている。
「シキ[#「シキ」に傍点]へ這入《へえ》ると、いつ死ぬか分らねえからな。だれだって、そうだろう」
と云う答があった。この時、
「御互に死なねえうちの事だなあ」
と一人《だれか》が云った。その語調には妙に咏嘆《えいたん》の意が寓《ぐう》してあった。自分はあまり突然のように感じた。
 そうしているうちに、一間《いっけん》置いて隣りの男が突然自分に話しかけた。
「御前《おめえ》はどこから来た」
「東京です」
「ここへ来て儲《もう》けようたって駄目だぜ」
と他《ほか》のが、すぐ教えてくれた。自分は長蔵さんに逢うや否や儲かる儲かるを何遍となく聞かせられて驚いたが、飯場《はんば》へ着くが早いか、今度は反対に、儲からない儲からないで立てつづけに責められるんで、大いに辟易《へきえき》した。しかし地《じ》の底ではよもやそんな話も出まいと思ってここまで降りて来たが、人に逢えばまた儲からないを繰り返された。あんまり馬鹿馬鹿しいんで何とか答弁をしようかとも考えたが、滅多《めった》な事を云えば擲《は》りつけられるだけだから、まあやめにして置いた。さればと云って返事をしなければまたやりつけられる。そこで、こう云った。
「なぜ儲からないんです」
「この銅山《やま》には神様がいる。いくら金を蓄《た》めて出ようとしたって駄目だ。金は必ず戻ってくる」
「何の神様ですか」
と聞いて見たら、
「達磨《だるま》だ」
と云って、四人《よつたり》ながら面白そうに笑った。自分は黙っていた。すると四人は自分を措《お》いてしきりに達磨の話を始めた。約十分余りも続いたろう。その間自分はほかの事を考えていた。いろいろ考えたうちに一番感じたのは、自分がこんな泥だらけの服を着て、真暗な坑《あな》のなかに屈《しゃが》んでるところを、艶子《つやこ》さんと澄江《すみえ》さんに見せたら
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