いくら手苛《てひど》くきめつけられても、初さんの機嫌がいいうちは結構であった。こうなると得になる事がすなわち結構という意味になる。自分はこれほど堕落して、おめおめ初さんの尻を嗅《か》いで行ったら、路が左の方に曲り込んでまた峻《けわ》しい坂になった。
「おい下りるよ」
と初さんが、後《うしろ》も向かず声を掛けた。その時自分は何となく東京の車夫を思い出して苦しいうちにもおかしかった。が初さんはそれとも気がつかず下《お》り出した。自分も負けずに降りる。路は地面を刻んで段々になっている。四五間ずつに折れてはいるが、勘定したら愛宕様《あたごさま》の高さぐらいはあるだろう。これは一生懸命になって、いっしょに降りた。降りた時にほっと息を吐《つ》くと、その息が何となく苦しかった。しかしこれは深い坑《あな》のなかで、空気の流通が悪いからとばかり考えた。実はこの時すでに身体《からだ》も冒《おか》されていたんである。この苦しい息で二三十間来るとまた模様が変った。
今度は初さんが仰向《あおむ》けに手を突いて、腰から先を入れる。腰から入れるような芸をしなければ通れないほど、坑《あな》の幅も高さも逼《せま》って来たのである。
「こうして抜けるんだ。好く見て置きねえ」
と初さんが云ったと思ったら、胴も頭もずる、ずると抜けて見えなくなった。さすが熟練の功はえらいもんだと思いながら、自分もまず足だけ前へ出して、草鞋《わらじ》で探《さぐり》を入れた。ところが全く宙に浮いてるようで足掛りがちっともない。何でも穴の向うは、がっくり落《おち》か、それでなくても、よほど勾配《こうばい》の急な坂に違ないと見当《けんとう》をつけた。だから頭から先へ突っ込めばのめって怪我をするばかり、また足をむやみに出せば引っ繰り返るだけと覚ったから、足を棒のように前へ寝かして、そうして後《うしろ》へ手を突いた。ところがこの所作《しょさ》がはなはだ不味《まず》かったので、手を突くと同時に、尻もべったり突いてしまった。ぴちゃりと云った。アテシコ[#「アテシコ」に傍点]を伝わって臀部《でんぶ》へ少々感じがあった。それほど強く尻餅《しりもち》を搗《つ》いたと見える。自分はしまったと思いながらも直《すぐ》両足を前の方へ出した。ずるりと一尺ばかり振《ぶ》ら下げたが、まだどこへも届かない。仕方がないから、今度は手の方を前へ運ばせて、腰を押し出すように足を伸ばした。すると腿《もも》の所まで摺《ず》り落ちて、草鞋《わらじ》の裏がようやく堅いものに乗った。自分は念のためこの堅いものをぴちゃぴちゃ足の裏で敲《たた》いて見た。大丈夫なら手を離してこの堅いものの上へ立とうと云う料簡《りょうけん》であった。
「何で足ばかり、ばたばたやってるんだ。大丈夫だから、うんと踏ん張って立ちねえな。意久地《いくじ》のねえ」
と、下から初さんの声がする。自分の胴から上は叱られると同時に、穴を抜けて真直に立った。
「まるで傘《からかさ》の化物《ばけもの》のようだよ」
と初さんが、自分の顔を見て云った。自分は傘の化物とは何の意味だか分らなかったから、別に笑う気にもならなかった。ただ
「そうですか」
と真面目に答えた。妙な事にこの返事が面白かったと見えて、初さんは、また大きな声を出して笑った。そうして、この時から態度が変って、前よりは幾分《いくぶん》か親切になった。偶然の事がどんな拍子《ひょうし》で他《ひと》の気に入らないとも限らない。かえって、気に入ってやろうと思って仕出《しで》かす芸術は大抵駄目なようだ。天巧《てんこう》を奪うような御世辞使はいまだかつて見た事がない。自分も我が身が可愛さに、その後《ご》いろいろ人の御機嫌を取って見たが、どうも旨《うま》い結果が出て来ない。相手がいくら馬鹿でも、いつか露見するから怖《こわ》いもんだ。用意をして置いた挨拶《あいさつ》で、この傘の化物に対する返事くらいに成功した場合はほとんどない。骨を折って失敗するのは愚《ぐ》だと悟ったから、近頃では宿命論者の立脚地から人と交際をしている。ただ困るのは演舌《えんぜつ》と文章である。あいつは骨を折って準備をしないと失敗する。その代りいくら骨を折ってもやっぱり失敗する。つまりは同じ事なんだが、骨を折った失敗は、人の気に入らないでも、自分の弱点《ぼろ》が出ないから、まあ準備をしてからやる事にしている。いつかは初さんの気に入ったような演説をしたり、文章を書いて見たいが、――どうも馬鹿にされそうでいけないから、いまだにやらずにいる。――それはここには余計な事だから、このくらいでやめてまた初さんの話を続けて行く。
その時初さんは、笑いながら、下から、自分に向って、
「おい、そう真面目くさらねえで、早く下りて来ねえな。日は短《みじけ》えやな」
と云った。坑《あな》の
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