して白い泡《あわ》を噴《ふ》いたり、青い飴《あめ》のようになったり、曲ったり、くねったりして下《しも》へ流れて行く。どうも非常にやかましい。時に日はだんだん暮れてくる。仰向《あおむ》いて見たが、日向《ひなた》はどこにも見えない。ただ日の落ちた方角がぽうっと明るくなって、その明かるい空を背負《しょ》ってる山だけが目立って蒼黒《あおぐろ》くなって来た。時は五月だけれども寒いもんだ。この水音だけでも夏とは思われない。まして入日《いりひ》を背中から浴びて、正面は陰になった山の色と来たら、――ありゃ全体何と云う色だろう。ただ形容するだけなら紫《むらさき》でも黒でも蒼《あお》でも構わないんだが、あの色の気持を書こうとすると駄目だ。何でもあの山が、今に動き出して、自分の頭の上へ来て、どっと圧《お》っ被《かぶ》さるんじゃあるまいかと感じた。それで寒いんだろう。実際今から一時間か二時間のうちには、自分の左右前後四方八方ことごとく、あの山のような気味のわるい色になって、自分も長蔵さんも茨城県も、全く世界|一色《いっしき》の内に裹《つつ》まれてしまうに違ないと云う事を、それとはなく意識して、一二時間後に起る全体の色を、一二時間前に、入日《いりひ》の方《かた》の局部の色として認めたから、局部から全体を唆《そその》かされて、今にあの山の色が広がるんだなと、どっかで虫が知らせたために、山の方が動き出して頭の上へ圧っ被さるんじゃあるまいかと云う気を起したんだなと――自分は今机の前で解剖して見た。閑《ひま》があるととかく余計な事がしたくなって困る。その時はただ寒いばかりであった。傍《そば》にいる茨城県の毛布《けっと》が羨《うらや》ましくなって来たくらいであった。
 すると橋の向うから――向《むこう》たって突き当りが山で、左右が林だから、人家なんぞは一軒もありゃしない。――実際自分はこう突然人家が尽きてしまおうとは、自分が自分の足で橋板を踏むまでも思いも寄らなかったのである。――その淋《さむ》しい山の方から、小僧が一人やって来た。年は十三四くらいで、冷飯草履《ひやめしぞうり》を穿《は》いている。顔は始めのうちはよく分らなかったが、何しろ薄暗い林の中を、少し明るく通り抜けてる石ころ路を、たった一人してこっちへひょこひょこ歩いて来る。どこから、どうして現れたんだか分らない。木下闇《こしたやみ》の一本路が
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