、食えと云う相図にちょっと動かした。よく考えて見ると、両手が芋で塞《ふさが》ってるんで、自分がどうかしてやらないと、長蔵さんは、いくら芋が食いたくても、口へ持って行く事ができないんであった。じれたのももっともである。そこで自分はようやく気がついて、二の腕で、変な曲線を描《えが》いて、右の手を芋まで持って行こうとすると、持って行く途中で、芋の方が一本ころころと往来の中へ落ちた。これはすぐさま赤毛布《あかげっと》が拾った。拾ったと思ったら、
「この芋《えも》は好芋《えええも》だ。おれが貰おう」
と云った。それでこの男は芋《いも》を芋《えも》と発音すると云う事が分った。
 自分はこの時長蔵さんから、最初に三本、あとから一本|締《しめ》て五本、前後二回に受取ったと記憶している。そうしてそれを懐《なつ》かしげに食いながら、いよいよ宿外《しゅくはず》れまで来るとまた一事件《ひとじけん》起った。
 宿《しゅく》の外《はず》れには橋がある。橋の下は谷川で、青い水が流れている。自分はもう町が尽きるんだなとは思いながら、つい芋に心を奪われて、橋の上へ乗っかかるまでは川があるとも気がつかなかった。ところが急に水の音がするんで、おやと思うと橋へ出ている。川がある。水が流れている。――何だか馬鹿気た話だが、事実にもっとも近い叙述をやろうとすると、まあ、こう書くのが一番適切だろう、こう書いて置く。けっして小説家の弄《もてあそ》ぶような法螺《ほら》七分の形容ではない。これが形容でないとするとその時の自分がいかに芋を旨《うま》がったのかがおのずから分明《ぶんみょう》になる。さて水音に驚いて、欄干《らんかん》から下を見ると、音のするのはもっともで、川の中に大きな石がだいぶんある。そうしてその形状《かっこう》がいかにも不作法《ぶさほう》にでき上って、あたかも水の通り道の邪魔になるように寝たり、突っ立ったりしている。それへ水がやけにぶつかる。しかもその水には勾配《こうばい》がついている。山から落ちた勢いをなし崩《くず》しに持ち越して、追っ懸《か》けられるように跳《おど》って来る。だから川と云うようなものの、実は幅の広い瀑《たき》を月賦《げっぷ》に引き延ばしたくらいなものである。したがって水の少ない割には大変|烈《はげ》しい。鼻《はな》っ端《ぱし》の強い江戸ッ子のようにむやみやたらに突っかかって来る。そう
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