んと呼んだ事がある。しかし長蔵とはどう書くのか今もって知らない。ここに書いたのはもちろん当字《あてじ》である。始めて家庭を飛出した鼻をいきなり引っ張って、思いも寄らない見当《けんとう》に向けた、云わば自分の生活状態に一転化を与えた人の名前を口で覚えていながら、筆に書けないのは異《い》な事だ。
 さてこの長蔵さんと、茶店のかみさんがきっと坑夫になれると受合うから、自分もなれるんだろうと思って、
「じゃ、どうか何分願います」
と頼んだ。しかしこの茶店に腰を掛けているものが、どうして、どこへ行って、どんな手続で坑夫になるんだかその辺《へん》はさっぱり分らなかった。
 何しろ先方でこのくらい勧めるものだから、何分願いますと云ったら、長蔵さんがどうかするに違ないと思って、あとは聞かずに黙っていた。すると長蔵さんは、勢いよくどてら[#「どてら」に傍点]の尻を床几《しょうぎ》から立てて、
「それじゃこれから、すぐに出掛けよう。御前さん、支度《したく》はいいかい。忘れもののないようによく気をつけて」
と云った。自分はうちを出る時、着のみ着のままで出たのだから、身体《からだ》よりほかに忘れ物のあるはずがない。そこで、
「何にも無いです」
と立ち上がったが、神さんと顔を見合せて気がついた。肝心《かんじん》の揚饅頭《あげまんじゅう》の代を忘れている。長蔵さんは平気な面《つら》をして、もう半分ほど葭簀《よしず》の外に出て往来を眺《なが》めていた。自分は懐中から三十二銭入りの蟇口《がまぐち》を出して饅頭三皿の代を払って、ついでだから茶代として五銭やった。饅頭の代はとうとう忘れちまって思い出せない。ただその時かみさんが、
「坑夫になって、うんと溜めて帰りにまた御寄《おより》」
と云ったのを記憶している。その後《のち》坑夫はやめたが、ついにこの茶店へは寄る機会がなかった。それから長蔵さんに尾《つ》いて、例の飽き飽きした松原へ出て、一本筋を足の甲まで埃《ほこり》を上げて、やって来ると、さっきの長たらしいのに引き易《か》えて今度は存外早く片づいちまった。いつの間《ま》にやら松がなくなったら、板橋街道のような希知《けち》な宿《しゅく》の入口に出て来た。やッぱり板橋街道のように我多馬車《がたばしゃ》が通る。一足先へ出た長蔵さんが、振り返って、
「御前さん馬車へ乗るかい」
と聞くから、
「乗っても好いです
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