自分の愚見だけを述べて、参考にしたい。
アテシコ[#「アテシコ」に傍点]を尻に敷いて、休息した時は、始めから休息する覚悟であった。から心に落ちつきが有る。刺激が少い。そう云う状態で壁へ倚《よ》りかかっていると、その状態がなだらかに進行するから、自然の勢いとしてだんだん気が遠くなる。魂が沈んで行く。こう云う場合における精神運動の方向は、いつもきまったもので、必ず積極から出立してしだいに消極に近づく径路《けいろ》を取るのが普通である。ところがその普通の径路を行き尽くして、もうこれがどん詰《づまり》だと云う間際《まぎわ》になると、魂が割れて二様の所作《しょさ》をする。第一は順風に帆を上げる勢いで、このどん底まで流れ込んでしまう。するとそれぎり死ぬ。でなければ、大切《おおぎり》の手前まで行って、急に反対の方角に飛び出してくる。消極へ向いて進んだものが、突如として、逆さまに、積極の頭へ戻る。すると、命がたちまち確実になる。自分が梯子《はしご》の下で経験したのはこの第二に当る。だから死に近づきながら好い心持に、三途《さんず》のこちら側まで行ったものが、順路をてくてく引き返す手数《てすう》を省《はぶ》いて、急に、娑婆《しゃば》の真中に出現したんである。自分はこれを死を転じて活に帰す経験と名づけている。
ところが梯子の中途では、全くこれと反対の現象に逢《あ》った。自分は初さんの後《あと》を追っ懸けて登らなければならない。その初さんは、とっくに見えなくなってしまった。心は焦《あせ》る、気は揉《も》める、手は離せない。自分は猿よりも下等である。情ない。苦しい。――万事が痛切である。自覚の強度がしだいしだいに劇《はげ》しくなるばかりである。だからこの場合における精神運動の方向は、消極より積極に向って登り詰める状態である。さてその状態がいつまでも進行して、奮興《ふんこう》の極度に達すると、やはり二様の作用が出る訳だが、とくに面白いと思うのはその一つ、――すなわち積極の頂点からとんぼ返りを打って、魂が消極の末端にひょっくり現われる奇特《きどく》である。平たく云うと、生きてる事実が明瞭になり切った途端《とたん》に、命を棄てようと決心する現象を云うんである。自分はこれを活上《かつじょう》より死に入る作用と名《なづ》けている。この作用は矛盾のごとく思われるが実際から云うと、矛盾でも何でも、魂の
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