か》を握らなければならない。それが前に云った通りぬるぬるする。梯子を一つ片づけるのは容易の事ではない。しかもそれが十五ある。初さんは、とっくの昔に消えてなくなった。手を離しさえすれば真暗闇《まっくらやみ》に逆落《さかおと》しになる。離すまいとすれば肩が抜けるばかりだ。自分は七番目の梯子の途中で火焔《かえん》のような息を吹きながら、つくづく労働の困難を感じた。そうして熱い涙で眼がいっぱいになった。
 二三度|上瞼《うわまぶた》と下瞼を打ち合して見たが、依然として、視覚はぼうっとしている。五寸と離れない壁さえたしかには分らない。手の甲で擦《こす》ろうと思うが、あやにく両方とも塞《ふさ》がっている。自分は口惜《くやし》くなった。なぜこんな猿の真似をするように零落《おちぶ》れたのかと思った。倒れそうになる身体《からだ》を、できるだけ前の方にのめらして、梯子に倚《もた》れるだけ倚れて考えた。休んだと註釈する方が適当かも知れない。ただ中途で留まったと云い切ってもよろしい。何しろ動かなくなった。また動けなくなった。じっとして立っていた。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]のじいと鳴るのも、足の底へ清水《しみず》が沁み込むのも、全く気がつかなかった。したがって何分《なんぷん》過《た》ったのかとんと感じに乗らない。するとまた熱い涙が出て来た。心が存外たしかであるのに、眼だけが霞《かす》んでくる。いくら瞬《まばたき》をしても駄目だ。湯の中に眸《ひとみ》を漬《つ》けてるようだ。くしゃくしゃする。焦心《じれっ》たくなる。癇《かん》が起る。奮興《ふんこう》の度が烈《はげ》しくなる。そうして、身体は思うように利《き》かない。自分は歯を食い締《しば》って、両手で握った段木を二三度揺り動かした。無論動きゃしない。いっその事、手を離しちまおうかしらん。逆さに落ちて頭から先へ砕ける方が、早く片がついていい。とむらむらと死ぬ気が起った。――梯子の下では、死んじゃ大変だと飛び起きたものが、梯子の途中へ来ると、急に太い短い無分別を起して、全く死ぬ気になったのは、自分の生涯《しょうがい》における心理推移の現象のうちで、もっとも記憶すべき事実である。自分は心理学者でないから、こう云う変化を、どう説明したら適切であるか知らないけれども、心理学者はかえって、実際の経験に乏しいようにも思うから、杜撰《ずさん》ながら、一応
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