、なお手足を疲らして、いかな南京虫でも応《こた》えないほど疲れ切ったんで、始めて寝たもんだろう。夜が明けたら、自分が摺《ず》り落ちた柱の下に、足だけ延ばして、背を丸く蹲踞《うずくま》っていた。
これほど苦しめられた南京虫も、二日三日と過《た》つにつれて、だんだん痛くなくなったのは妙である。その実、一箇月ばかりしたら、いくら南京虫がいようと、まるで米粒でも、ぞろぞろ転がってるくらいに思って、夜はいつでも、ぐっすり安眠した。もっとも南京虫の方でも日数《ひかず》を積むに従って遠慮してくるそうである。その証拠には新来《きたて》のお客には、べた一面にたかって、夜通し苛《いじ》めるが、少し辛抱していると、向うから、愛想《あいそ》をつかして、あまり寄りつかなくなるもんだと云う。毎日食ってる人間の肉は自然鼻につくからだとも教えたものがあるし、いや肉の方にそれだけの品格が出来て、シキ[#「シキ」に傍点]臭くなるから、虫も恐れ入るんだとも説明したものがある。そうして見るとこの南京虫と坑夫とは、性質《たち》がよく似ている。おそらく坑夫ばかりじゃあるまい、一般の人類の傾向と、この南京虫とはやはり同様の心理に支配されてるんだろう。だからこの解釈は人間と虫けらを概括《がいかつ》するところに面白味があって、哲学者の喜びそうな、美しいものであるが、自分の考えを云うと全くそうじゃないらしい。虫の方で気兼《きがね》をしたり、贅沢《ぜいたく》を云ったりするんじゃなくって、食われる人間の方で習慣の結果、無神経になるんだろうと思う。虫は依然として食ってるが、食われても平気でいるに違ない、もっとも食われて感じないのも、食われなくって感じないのも、趣《おもむき》こそ違え、結果は同じ事であるから、これは実際上議論をしても、あまり役に立たない話である。
そんな無用の弁は、どうでもいいとして、自分が眼を開けて見たら、夜は全く明け放れていた。下ではもうがやがや云っている。嬉しかった。窓から首を出して見ると、また雨だ。もっとも判然《はっきり》とは降っていない。雲の濃いのが糸になり損《そく》なって、なっただけが、細く地へ落ちる気色《けしき》だ。だからむやみに濛々《もうもう》とはしていない。しだいしだいに雨の方に片づいて、片づくに従って糸の間が透《す》いて見える。と云っても見えるものは山ばかりである。しかも草も木も至って
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