冷やかされずに、まあ無難《ぶなん》に済んだ。上がって来るものも、来るものも、みんな急いで降りて行くんで、調戯《からか》う暇がなかったんだろう。その代り一人に一度ずつは必ず睨《にら》まれた。そうこうしている内に、上がって来るものがようやく絶えたから、自分はようやく寛容《くつろ》いだ思いをして、囲炉裏《いろり》の炭の赤くなったのを見詰めて、いろいろ考え出した。もちろん纏《まと》まりようのない、かつ考えれば考えるほど馬鹿になる考えだが、火を見詰ていると、炭の中にそう云う妄想《もうぞう》がちらちらちらちら燃えてくるんだから仕方がない。とうとう自分の魂が赤い炭の中へ抜出して、火気《かっき》に煽《あお》られながら、むやみに踊をおどってるような変な心持になった時に、突然、
「草臥《くたび》れたろうから、もう御休みなさい」
と云われた。
 見ると、さっきの婆さんが、立っている。やっぱり襷掛《たすきがけ》のままである。いつの間《ま》に上がって来たものか、ちっとも気がつかなかった。自分の魂が遠慮なく火の中を馳《か》け廻って、艶子《つやこ》さんになったり、澄江《すみえ》さんになったり、親爺《おやじ》になったり、金さんになったり、――被布《ひふ》やら、廂髪《ひさしがみ》やら、赤毛布《あかげっと》やら、唸《うな》り声《ごえ》やら、揚饅頭《あげまんじゅう》やら、華厳《けごん》の滝やら――幾多無数の幻影《まぼろし》が、囲炉裏の中に躍《おど》り狂って、立ち騰《のぼ》る火の気の裏《うち》に追いつ追われつ、日向《ひなた》に浮かぶ塵《ちり》と思われるまで夥《おびただ》しく出て来た最中に、はっと気がついたんだから、眼の前にいる婆さんが、不思議なくらい変であった。しかし寝ろと云う注意だけは明かに耳に聞えたに違ないから、自分はただ、
「ええ」
と答えた。すると婆さんは後《うし》ろの戸棚を指《さ》して、
「布団《ふとん》は、あすこに這入《はい》ってるから、独《ひとり》で出して御掛けなさい。一枚三銭ずつだ。寒いから二枚はいるでしょう」
と聞くから、また
「ええ」
と答えたら、婆さんは、それ限《ぎり》何にも云わずに、降りて行った。これで、自分は寝てもいいと云う許可を得たから、正式に横になっても剣突《けんつく》を食う恐れはあるまいと思って、婆さんの指図通《さしずどお》り戸棚を明けて見ると、あった。布団がたくさんあった
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