ちぶがた》でき上った笑いを急に崩《くず》したと云う自覚は無論なかった。ただ寄席《よせ》を聞いてるつもりで眼を開けて見たら鼻の先に毘沙門様《びしゃもんさま》が大勢いて、これはと威儀を正さなければならない気持であった。一口に云うと、自分はこの時始めて、真面目な宗教心の種を見て、半獣半人の前にも厳格の念を起したんだろう。その癖自分はいまだに宗教心と云うものを持っていない。
 この時さっきの病人が、向うの隅でううんと唸《うな》り出した。その唸り声には無論特別の意味はない。単に普通の病人の唸り声に過ぎんのだが、ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]の未来に屈託している連中には、一種のあやしい響のように思われたんだろう。みんな眼と眼を見合した。
「金公《きんこう》苦しいのか」
と一人が大きな声で聞いた。病人は、ただ、
「ううん」
と云う。唸ってるのか、返事をしているのか判然しない。するとまた一人の坑夫が、
「そんなに嚊《かかあ》の事ばかり気にするなよ。どうせ取られちまったんだ。今更《いまさら》唸ったってどうなるもんか。質に入れた嚊だ。受出さなけりゃ流れるなあ当り前だ」
と、やっぱり囲炉裏の傍《そば》へ坐ったまま、大きな声で慰《なぐさ》めている。慰めてるんだか、悪口《あくたい》を吐《つ》いているんだか疑わしいくらいである。坑夫から云うと、どっちも同じ事なんだろう。病人はただううんと挨拶《あいさつ》――挨拶にもならない声を微《かす》かに出すばかりであった。そこで大勢は懸合《かけあい》にならない慰藉《いしゃ》をやめて、囲炉裏の周囲《まわり》だけで舌《した》の用を弁じていた。しかし話題はまだ金さんを離れない。
「なあに、病気せえしなけりゃ、金公だって嚊を取られずに済むんだあな。元を云やあ、やっぱり自分が悪いからよ」
と一人が、金さんの病気をさも罪悪のように評するや否や、
「全くだ。自分が病気をして金を借りて、その金が返せねえから、嚊を抵当に取られちまったんだから、正直のところ文句《もんく》の附けようがねえ」
と賛成したものがある。
「若干《いくら》で抵当に入れたんだ」
と聞くと、向側《むこうがわ》から、
「五両だ」
と誰だか、簡潔に教えた。
「それで市《いち》の野郎が長屋へ下がって、金しゅうと入れ代った訳か。ハハハハ」
 自分は囲炉裏の側《そば》に坐ってるのが苦痛であった。背中の方がぞく
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