さえあれば、敵と認定してしまう。――遠方にはおるが、そろそろ押し寄せて来そうな未来の敵を、見ていた。かように自分の心が、左右前後と離《はな》れ離れになって、しかも独立ができないものだから、物の後《あと》を追掛《おっか》け、追ん廻わしているほど辛《つら》い事はない。なんでも敵に逢《あ》ったら敵を呑《の》むに限る。呑む事ができなければ呑まれてしまうが好い。もし両方共困難ならぷつりと縁を截《き》って、独立自尊の態度で敵を見ているがいい。敵と融合する事もできず、敵の勢力範囲外に心を持ってく事も出来ず、しかも敵の尻を嗅《か》がなければならないとなると、はなはだしき損となる。したがってもっとも下等である。自分はこう云う場合にたびたび遭遇して、いろいろな活路を研究して見たが、研究したほどに、心が云う事を聞かない。だからここに申す三策は、みんな釈迦《しゃか》の空説法《からぜっぽう》である。もし講釈をしないでも知れ切ってる陳説《ちんせつ》なら、なおさら言うだけが野暮《やぼ》になる。どうも正式の学問をしないと、こう云う所へ来て、取捨の区別がつかなくって困る。
 自分が四方八方に気を配って、自分の存在を最高度に縮小して恐れ入っていると、
「御膳《ごぜん》を御上がんなさい」
と云う婆さんの声が聞えた。いつの間《ま》に婆さんが上がって来たんだか、自分の魂が鳩の卵のように小さくなって、萎縮《いしゅく》した真最中だったから、御膳の声が耳に入るまではまるで気がつかなかった。見ると剥《は》げた御膳《おぜん》の上に縁《ふち》の欠けた茶碗が伏せてある。小《ち》さい飯櫃《めしびつ》も乗っている。箸《はし》は赤と黄に塗り分けてあるが、黄色い方の漆《うるし》が半分ほど落ちて木地《きじ》が全く出ている。御菜には糸蒟蒻《いとごんにゃく》が一皿ついていた。自分は伏目になってこの御膳の光景を見渡した時、大いに食いたくなった。実は今朝《けさ》から水一滴も口へ入れていない。胃は全く空《から》である。もし空でなければ、昨日《きのう》食った揚饅頭《あげまんじゅう》と薩摩芋《さつまいも》があるばかりである。飯の気《け》を離れる事約二昼夜になるんだから、いかに魂が萎縮しているこの際でも、御櫃《おはち》の影を見るや否や食慾は猛然として咽喉元《のどもと》まで詰め寄せて来た。そこで、冷かしも、交《ま》ぜっ返しも気に掛ける暇《いとま》な
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