めて、こう云う人間と一つ所《とこ》に泊って、これからまたいっしょに歩き出すんだなと思った。赤毛布と小僧の顔色を伺って見ると少しも朝飯を予期している様子がないんで、双方共朝飯を食い慣《つ》けていない一種の人類だと勘づいて見ると、自分の運命は坑夫にならない先から、もう、坑夫以下に摺《ず》り落ちていたと云う事が分った。しかし分ったと云うばかりで別に悲しくもなかった。涙は無論出なかった。ただ長蔵さんが、この朝飯の経験に乏《とぼ》しい人間に向って、「御前さん達も飯が食いたいかね」と尋ねてくれなかったのを、今では残念に思ってる。食った事が少いから、今までの習慣性で、「食わないでも好い」と答えるか、それとも、たまさかに有りつけるかも知れないと云う意外の望に奨励《しょうれい》されて「食いたい」と答えるか。――つまらん事だがどっちか聞いて見たい。
長蔵さんは土間へ立って、ちょっと後《うし》ろを振り返ったが、
「熊《くま》さん、じゃ行ってくる。いろいろ御世話様」
と軽く力足《ちからあし》を二三度踏んだ。熊さんは無論亭主の名であるが、まだ奥で寝ている。覗《のぞ》いて見ると、昨夕《ゆうべ》うつつに気味をわるくした、もじゃもじゃの頭が布団《ふとん》の下から出ている。この亭主は敷蒲団《しきぶとん》を上へ掛けて寝る流儀と見える。長蔵さんが、このもじゃもじゃの頭に話しかけると、頭は、むくりと畳を離れた。そうして熊さんの顔が出た。この顔は昨夜《ゆうべ》見たほど妙でもなかった。しかし額がさかに瘠《こ》けて、脳天まで長くなってる事は、今朝でも争われない。熊さんは床の中から、
「いや、何にも御構《おかまい》申さなかった」
と云った。なるほど何にも構わない。自分だけ布団をかけている。
「寒かなかったかね」
とも云った。気楽なもんだ。長蔵さんは
「いいえ。なあに」
と受けて、土間から片足踏み出した時、後《うしろ》から、熊さんが欠伸交《あくびまじ》りに、
「じゃ、また帰りに御寄り」
と云った。
それから長蔵さんが往来へ出る。自分も一足|後《おく》れて、小僧と赤毛布《あかげっと》の尻を追っ懸《か》けて出た。みんな大急ぎに急ぐ。こう云う道中には慣《な》れ切ったものばかりと見える。何でも長蔵さんの云うところによると、これから山越をするんだが、午《ひる》までには銅山《やま》へ着かなくっちゃならないから急ぐんだそうだ
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