けて、長蔵さんと赤毛布《あかげっと》が草鞋《わらじ》の紐《ひも》を結ぶのを、不景気な懐手《ふところで》をして待っていた。
 土間へ下りた以上は、顔を洗わないのかの、朝飯《あさめし》を食わないのかのと、当然の事を聞くのが、さも贅沢《ぜいたく》の沙汰《さた》のように思われて、とんと質問して見る気にならない。習慣の結果、必要とまで見做《みな》されているものが、急に余計な事になっちまうのはおかしいようだが、その後《のち》この顛倒《てんとう》事件を布衍《ふえん》して考えて見たら、こんな、例はたくさんある。つまり世の中では大勢のやってる事が当然になって、一人だけでやる事が余計のように思われるんだから、当然になろうと思ったら味方を大勢|拵《こしら》えて、さも当然であるかの容子《ようす》で不当な事をやるに限る。やっては見ないがきっと成功するだろう。相手が長蔵さんと赤毛布でさえ自分にはこれほどの変化を来たしたんでも分る。
 すると長蔵さんは草鞋の紐を結んで、足元に用がなくなったもんだから、ふいと顔を上げた。そうして自分を見た。そうして、こんな事を云う。
「御前さん、飯は食わなくっても好いだろうね」
 飯を食わなくって好い法はないが、わるいと云ったって、始まりようがないから、自分はただ、
「好いです」
と答えて置いた。すると長蔵さんは、
「食いたいかね」
と云って、にやにやと笑った。これは自分の顔に飯が食いたいような根性《こんじょう》が幾分かあらわれたためか、または十九年来の予期に反した起きたなり飯抜きの出立《しゅったつ》に、自然不平の色が出ていたためだろう。それでなければ草鞋の紐を結んでしまってから、こんな事を聞く訳がない。現に長蔵さんは、赤毛布にも小僧にもこの質問を呈出しなかったんでも分る。今考えると、ちょっと両人《ふたり》にも同じ事を聞いて見れば善かったような気もする。朝飯を食わないで五里十里と歩き出すものは宿無《やどな》しか、または準宿無しでなくっちゃならない。目が醒《さ》めて、夜が明けてるのに、汁の煙《けむ》も、漬物の香《におい》も、いっこう連想に乗って来ないからは、行きなり放題に、今日は今日の命を取り留めて、その日その日の魂の供養《くよう》をする呑気屋《のんきや》で、世の中にあしたと云うものがないのを当り前と考えるほどに不幸なまた幸《さいわい》な人間である。自分は十九年来始
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