ちだった。もし笑うなら、極《きわ》めて小さくって、非常に活溌で、そうして口を利《き》かない動物を想像して見ると分る。滅多《めった》にありゃしない。こんな動物といっしょに夜|山越《やまごえ》をしたとすると、誰だって物騒な気持になる。自分はこの時この小僧の事を今考えても、妙な感じが出て来る。さっき蝙蝠《こうもり》のようだと云ったが、全く蝙蝠だ。長蔵さんと赤毛布《あかげっと》がいたから、好《よ》いようなものの、蝙蝠とたった二人限《ふたりぎり》だったら――正直なところ降参する。
すると長蔵さんが、暗闇《くらやみ》の中で急に、
「おおい」
と声を揚げた。淋《さむ》しい夜道で、急に人声を聞いた人があるかないか知らないが、聞いて見るとちょっと異《い》な感じのするものだ。それも普通の話し声なら、まだ好いが、おおい[#「おおい」に傍点]と人を呼ぶ奴は気味がよくない。山路で、黒闇《くらやみ》で、人っ子一人通らなくって、御負《おまけ》に蝙蝠なんぞと道伴《みちづれ》になって、いとど物騒な虚に乗じて、長蔵さんが事ありげに声を揚《あ》げたんである。事のあるべきはずでない時で、しかも事がありかねまじき場所でおおい[#「おおい」に傍点]と来たんだから、突然と予期が合体して、自分の頭に妙な響を与えた。この声が自分を呼んだんなら、何か起ったなとびくんとするだけで済むんだが、五六間|後《うしろ》から行く自分の注意を惹《ひ》くためとは受取れないほど大きかった。かつ声の伝わって行く方角が違う。こっちを向いた声じゃない。おおい[#「おおい」に傍点]と右左りに当ったが、立ち木に遮《さえぎ》られて、細い道を向うの方へ遠く逃げのびて、遥《はるか》の先でおおい[#「おおい」に傍点]と云う反響があった。反響はたしかにあったが、返事はないようだ。すると長蔵さんは、前より一層大きな声を出して、
「小僧やあ」
と呼んだ。今考えると、名前も知らないで、小僧やあと呼ぶなんて少しとぼけているがその時はなかなかとぼけちゃいなかった。自分はこの声を聞くと同時に蝙蝠が隠れたんだなと気がついた。先へ行ったと思うのが当り前で、まかり間違っても逃げたと鑑定をつけべきはずだのに、隠れたんだとすぐ胸先へ浮んで来たのは、よっぽど蝙蝠に祟《たた》られていたに違ない。この祟は翌朝《あした》になって太陽が出たらすっかり消えてしまって、自分で自分を何《な
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