一言にして云うとセッパ詰った小説を云うのである。息の塞《ふさが》る様な小説を云うのである。一毫《いちごう》も道草を食ったり寄道をして油を売ってはならぬ小説を云うのである。呑気《のんき》な分子、気楽な要素のない小説を云うのである。たとえばイブセンの脚本を小説に直した様なものを云うのである。大いに触れたものを云うのである。所謂《いわゆる》イブセンの書いたもの抔《など》は先《ま》ず吾人の一生の浮沈に関する様な非常な大問題をつらまえて来て其問題の解決がしてある。しかも其解決が普通の我々が解決する様な月並でなくってへえと驚ろく様な解決をさせる事がある。人は之《これ》を称して第一義の道念に触れるとも、人生の根元に徹するとも評して居る。成程《なるほど》吾々凡人より高く一隻眼《いっせきがん》を具して居ないとあんな御手際《おてぎわ》は覚束《おぼつか》ない。只《ただ》此点|丈《だけ》でも敬服の至りである。然し斯様《かよう》に百尺竿頭《ひゃくしゃくかんとう》に一歩を進めた解決をさせたり、月並を離れた活動を演出させたり、篇中の性格を裏返しにして人間の腹の底にはこんな妙なものが潜《ひそ》んで居ると云う事を読者に
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