い。のびない護謨《ゴム》もゆとりがあって面白いと云う人を屈服させる訳には行かない。
茶を品し花に灌《そそ》ぐのも余裕である。冗談《じょうだん》を云うのも余裕である。絵画彫刻に間《かん》を遣《や》るのも余裕である。釣《つり》も謡《うたい》も芝居も避暑も湯治も余裕である。日露戦争の永続せざる限り、世間がボルクマンの様な人間で充満しない限りは余裕だらけである。而《しか》して吾人も已《やむ》を得ざる場合の外《ほか》は此余裕を喜ぶものである。従って此等の余裕より生ずる材料は皆小説となって適当である。(喜ぶから小説になると云うと小説は娯楽の為めと云う意味になる。此《これ》を詳《くわ》しく説明しようとすると小説の目的と云う議論になる。機会を見て余は此点に関する自己の意見を述べたいと思うが、今は詳説する遑《いとま》がないから別に云わぬ。只《ただ》小説は娯楽を目的にしてはならぬと云う議論は成立せぬ。従って娯楽も亦《また》小説の一目的として存在し得るものだと許《ばか》り一言して置く。)
以上は余裕ある小説の説明である。既に余裕ある小説を説明した以上は余裕なき小説も大概其意味が分った筈《はず》であるが。
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