っても難有《ありがた》くなくなる。辱《はずか》しめられても恥とは思わなくなる。と云うものは凡《すべ》て是等《これら》の現象界の奥に自己の本体はあって、此流俗と浮沈するのは徹底に浮沈するのではない。しばらく冗談半分《じょうだんはんぶん》に浮沈して居るのである。いくら猛烈に怒っても、いくらひいひい泣いても、怒りが行き留りではない、涙が突き当りではない。奥にちゃんと立《た》ち退《の》き場《ば》がある。いざとなれば此|立退場《たてのきば》へいつでも帰られる。しかも此立退場は不増である。不減である。いくら天下様の御威光でも手のつけ様のない安全な立退場である。此立退場を有《も》って居る人の喜怒哀楽と、有たない人の喜怒哀楽とは人から見たら一様かも知れないが之《これ》を起す人之を受ける人から云うと莫大《ばくだい》な相違がある。従って流俗で云う第一義の問題も此見地に住する人から云うと第二義以下に堕《お》ちて仕舞《しま》う。従がって我等から云ってセッパ詰った問題も此人等から云うと余裕のある問題になる。
所謂《いわゆる》禅味と云うものを解釈した人があるかないか知らないが、禅坊主の趣味だから禅味と云うのだろう。そうして禅坊主の悟りと云うものが彼等の云う通りのものであったなら余の解釈に間違はなかろうと思う。して見ると禅味と云う事は暗《あん》に余裕のある文学と云う意味に一致する。そうしてその余裕は生死以上に第一義を置くから出てくる。
余は虚子の小説を評して余裕があると云った。虚子の小説に余裕があるのは果《はた》して前条の如く禅家の悟を開いた為かどうだか分らない。只《ただ》世間ではよく俳味禅味と並べて云う様である。虚子は俳句に於て長い間苦心した男である。従がって所謂《いわゆる》俳味なるものが流露して小説の上にあらわれたのが一見禅味から来た余裕と一致して、こんな余裕を生じたのかも知れない。虚子の小説を評するに方《あた》っては是丈《これだけ》の事を述べる必要があると思う。
尤《もっと》も虚子もよく移る人である。現に集中でも秋風なんと云うのは大分風が違って居る。それでも比較的痛切な題目に対する虚子の叙述的態度は依然として余裕がある様である。虚子は畢竟《ひっきょう》余裕のある人かも知れない。
明治四十年十一月
底本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10」筑摩書房
1972(昭和4
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