事には、どれもこれも物になつて居らん。其癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ。後架の中で謠をうたつて、近所で後架先生と渾名をつけられて居るにも關せず一向平氣なもので、矢張是は平の宗盛にて候を繰返して居る。皆んながそら宗盛だと吹き出す位である。此主人がどういふ考になつたものか吾輩の住み込んでから一月許り後のある月の月給日に、大きな包みを提げてあはたゞしく歸つて來た。何を買つて來たのかと思ふと水彩繪具と毛筆とワットマンといふ紙で今日から謠や俳句をやめて繪をかく决心と見えた。果して翌日から當分の間といふものは毎日々々書齋で晝寐もしないで繪許りかいて居る。然し其かき上げたものを見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない。當人もあまり甘くないと思つたものか、ある日其友人で美學とかをやつて居る人が來た時に下の樣な話をして居るのを聞いた。
「どうも甘くかけないものだね。人のを見ると何でもない樣だが自ら筆をとつて見ると今更の樣に六づかしく感ずる」是は主人の述懷である。成程詐りのない處だ。彼の友は金縁の眼鏡越に主人の顏を見ながら、「さう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像許りで畫がかける譯のもので
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