いてやれといつたまゝ奧へ這入つて仕舞つた。主人は餘り口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜しさうに吾輩を臺所へ抛り出した。かくして吾輩は遂に此家を自分の住家と極める事にしたのである。
 吾輩の主人は滅多に吾輩と顏を合せる事がない。職業は教師ださうだ。學校から歸ると終日書齋に這入つたぎり殆んど出て來る事がない。家のものは大變な勉強家だと思つて居る。當人も勉強家であるかの如く見せて居る。然し實際はうちのものがいふ樣な勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書齋を覗いて見るが、彼はよく晝寐をして居る事がある。時々讀みかけてある本の上に涎をたらして居る。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帶びて彈力のない不活溌な徴候をあらはして居る。其癖に大飯を食ふ。大飯を食つた後で「タカチヤスターゼ」を飮む。飮んだ後で書物をひろげる。二三ページ讀むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。是が彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考へる事がある。教師といふものは實に樂なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寐て居て勤まるものなら猫にでも出來ぬ事はないと。夫でも主人に云はせると教師程つらいものはないさうで彼は友達が來
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