もう一刻も猶豫が出來なくなつた。仕方がないから兎に角明るくて暖かさうな方へ方へとあるいて行く。今から考へると其時は既に家の内に這入つてたのだ。こゝで余は彼の書生以外の人間を再び見るべき機會に遭遇したのである。第一に逢つたのがおさんである。是は前の書生より一層亂暴な方で我輩を見るや否やいきなり頸筋をつかんで表へ抛り出した。いや是は駄目だと思つたから眼をねぶつて運を天に任せて居た。然しひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出來ん。吾輩は再びおさんの隙を見て臺所へ這ひ上つた。すると間もなく又投げ出された。吾輩は投げ出されては這ひ上り、這ひ上つては投げ出され何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶して居る。其時におさんと云ふ者はつく/″\いやになつた。此間おさんの三馬を偸んで此返報をしてやつてから、やつと胸の痞が下りた。吾輩が最後につまみ出され樣としたときに、此家の主人が騷々しい何だといひながら出て來た。下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けて此宿なしの小猫がいくら出しても出しても御臺所へ上つて來て困りますといふ。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顏を暫らく眺めて居つたが。やがてそんなら内へ置いてやれといつたまゝ奧へ這入つて仕舞つた。主人は餘り口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜しさうに吾輩を臺所へ抛り出した。かくして吾輩は遂に此家を自分の住家と極める事にしたのである。
 吾輩の主人は滅多に吾輩と顏を合せる事がない。職業は教師ださうだ。學校から歸ると終日書齋に這入つたぎり殆んど出て來る事がない。家のものは大變な勉強家だと思つて居る。當人も勉強家であるかの如く見せて居る。然し實際はうちのものがいふ樣な勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書齋を覗いて見るが、彼はよく晝寐をして居る事がある。時々讀みかけてある本の上に涎をたらして居る。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帶びて彈力のない不活溌な徴候をあらはして居る。其癖に大飯を食ふ。大飯を食つた後で「タカチヤスターゼ」を飮む。飮んだ後で書物をひろげる。二三ページ讀むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。是が彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考へる事がある。教師といふものは實に樂なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寐て居て勤まるものなら猫にでも出來ぬ事はないと。夫でも主人に云はせると教師程つらいものはないさうで彼は友達が來る度に何とかゝんとか不平を鳴らして居る。
 吾輩が此家へ住み込んだ當時は、主人以外のものには甚だ不人望であつた。どこへ行つても跳ね付けられて相手にしてくれ手がなかつた。如何に珍重されなかつたかは、今日に至る迄名前さへつけてくれないのでも分る。我輩は仕方がないから、出來得る限り我輩を入れてくれた主人の傍に居る事をつとめた。朝主人が新聞を讀むときは必ず彼の膝の上に乘る。彼が晝寐をするときは必ず其脊中に乘る。是はあながち主人が好きといふ譯ではないが別に構ひ手がなかつたから已を得んのである。其後色々經驗の上、朝は飯櫃の上、夜は炬燵の上、天氣のよい晝は椽側へ寐る事とした。然し一番心持の好いのは夜に入つてこゝのうちの小供の寐床へもぐり込んで一所にねる事である。此小供といふのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入つて一間へ寐る。余はいつでも彼等の中間に己れを容るべき餘地を見出してどうにか、かうにか割り込むのであるが運惡く小供の一人が眼を醒ますが最後大變な事になる。小供は―殊に小さい方が質がわるい―猫が來た/\といつて夜中でも何でも大きな聲で泣き出すのである。すると例の神經胃弱性の主人は必ず眼をさまして次の部屋から飛び出してくる。現に先達て抔は物指で尻ぺたをひどく叩かれた。
 吾輩は人間と同居して彼等を觀察すればする程、彼等は我儘なものだと斷言せざるを得ない樣になつた。殊に吾輩が時々同衾する小供の如きに至つては言語同斷である。自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり。抛り出したり。へ―つ―つ―いの中へ押し込んだりする。而も我輩の方で少しでも手出しを仕樣ものなら家内總がゝりで追ひ廻して迫害を加へる。此間も一寸疊で爪を磨いたら細君が非常に怒つてそれから容易に座敷へ入れない。臺所の板の間で他(ひと)が顫へて居ても一向平氣なものである。吾輩の尊敬する筋向の白君抔は逢ふ度毎に人間程不人情なものはないと言つて居らるゝ。白君は先日玉の樣な猫子を四疋産まれたのである。所がそこの家の書生が三日目にそいつを裏の池へ持て行つて四疋ながら棄てゝ來たさうだ。白君は涙を流して其一部始終を話した上、どうしても我等猫族が親子の愛を完くして美しい家族的生活をするには人間と戰つて之を剿滅せねばならぬといはれた。一々尤の議論と思ふ。又隣りの三毛君抔は人間が所有權といふ事を解して居ないといつて大に憤慨して居
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