とも知らず座敷で妙な事を話している。
「先生|障子《しょうじ》を張り易《か》えましたね。誰が張ったんです」
「女が張ったんだ。よく張れているだろう」
「ええなかなかうまい。あの時々おいでになる御嬢さんが御張りになったんですか」
「うんあれも手伝ったのさ。このくらい障子が張れれば嫁に行く資格はあると云って威張ってるぜ」
「へえ、なるほど」と云いながら寒月君障子を見つめている。
「こっちの方は平《たいら》ですが、右の端《はじ》は紙が余って波が出来ていますね」
「あすこが張りたてのところで、もっとも経験の乏《とぼ》しい時に出来上ったところさ」
「なるほど、少し御手際《おてぎわ》が落ちますね。あの表面は超絶的《ちょうぜつてき》曲線《きょくせん》でとうてい普通のファンクションではあらわせないです」と、理学者だけにむずかしい事を云うと、主人は
「そうさね」と好い加減な挨拶をした。
この様子ではいつまで嘆願をしていても、とうてい見込がないと思い切った武右衛門君は突然かの偉大なる頭蓋骨《ずがいこつ》を畳の上に圧《お》しつけて、無言の裡《うち》に暗に訣別《けつべつ》の意を表した。主人は「帰るかい」と云った。武右衛門君は悄然《しょうぜん》として薩摩下駄を引きずって門を出た。可愛想《かわいそう》に。打ちゃって置くと巌頭《がんとう》の吟《ぎん》でも書いて華厳滝《けごんのたき》から飛び込むかも知れない。元を糺《ただ》せば金田令嬢のハイカラと生意気から起った事だ。もし武右衛門君が死んだら、幽霊になって令嬢を取り殺してやるがいい。あんなものが世界から一人や二人消えてなくなったって、男子はすこしも困らない。寒月君はもっと令嬢らしいのを貰うがいい。
「先生ありゃ生徒ですか」
「うん」
「大変大きな頭ですね。学問は出来ますか」
「頭の割には出来ないがね、時々妙な質問をするよ。こないだコロンバスを訳して下さいって大《おおい》に弱った」
「全く頭が大き過ぎますからそんな余計な質問をするんでしょう。先生何とおっしゃいました」
「ええ? なあに好《い》い加減な事を云って訳してやった」
「それでも訳す事は訳したんですか、こりゃえらい」
「小供は何でも訳してやらないと信用せんからね」
「先生もなかなか政治家になりましたね。しかし今の様子では、何だか非常に元気がなくって、先生を困らせるようには見えないじゃありませんか」
「今日は少し弱ってるんだよ。馬鹿な奴だよ」
「どうしたんです。何だかちょっと見たばかりで非常に可哀想《かわいそう》になりました。全体どうしたんです」
「なに愚《ぐ》な事さ。金田の娘に艶書《えんしょ》を送ったんだ」
「え? あの大頭がですか。近頃の書生はなかなかえらいもんですね。どうも驚ろいた」
「君も心配だろうが……」
「何ちっとも心配じゃありません。かえって面白いです。いくら、艶書が降り込んだって大丈夫です」
「そう君が安心していれば構わないが……」
「構わんですとも私はいっこう構いません。しかしあの大頭が艶書をかいたと云うには、少し驚ろきますね」
「それがさ。冗談《じょうだん》にしたんだよ。あの娘がハイカラで生意気だから、からかってやろうって、三人が共同して……」
「三人が一本の手紙を金田の令嬢にやったんですか。ますます奇談ですね。一人前の西洋料理を三人で食うようなものじゃありませんか」
「ところが手分けがあるんだ。一人が文章をかく、一人が投函《とうかん》する、一人が名前を借す。で今来たのが名前を借した奴なんだがね。これが一番|愚《ぐ》だね。しかも金田の娘の顔も見た事がないって云うんだぜ。どうしてそんな無茶な事が出来たものだろう」
「そりゃ、近来の大出来ですよ。傑作ですね。どうもあの大頭が、女に文《ふみ》をやるなんて面白いじゃありませんか」
「飛んだ間違にならあね」
「なになったって構やしません、相手が金田ですもの」
「だって君が貰うかも知れない人だぜ」
「貰うかも知れないから構わないんです。なあに、金田なんか、構やしません」
「君は構わなくっても……」
「なに金田だって構やしません、大丈夫です」
「それならそれでいいとして、当人があとになって、急に良心に責められて、恐ろしくなったものだから、大《おおい》に恐縮して僕のうちへ相談に来たんだ」
「へえ、それであんなに悄々《しおしお》としているんですか、気の小さい子と見えますね。先生何とか云っておやんなすったんでしょう」
「本人は退校になるでしょうかって、それを一番心配しているのさ」
「何で退校になるんです」
「そんな悪るい、不道徳な事をしたから」
「何、不道徳と云うほどでもありませんやね。構やしません。金田じゃ名誉に思ってきっと吹聴《ふいちょう》していますよ」
「まさか」
「とにかく可愛想《かわいそう》ですよ。そんな事をするのがわるいとしても、あんなに心配させちゃ、若い男を一人殺してしまいますよ。ありゃ頭は大きいが人相はそんなにわるくありません。鼻なんかぴくぴくさせて可愛いです」
「君も大分《だいぶ》迷亭見たように呑気《のんき》な事を云うね」
「何、これが時代思潮です、先生はあまり昔《むか》し風《ふう》だから、何でもむずかしく解釈なさるんです」
「しかし愚《ぐ》じゃないか、知りもしないところへ、いたずらに艶書《えんしょ》を送るなんて、まるで常識をかいてるじゃないか」
「いたずらは、たいがい常識をかいていまさあ。救っておやんなさい。功徳《くどく》になりますよ。あの容子《ようす》じゃ華厳《けごん》の滝へ出掛けますよ」
「そうだな」
「そうなさい。もっと大きな、もっと分別のある大僧《おおぞう》共がそれどころじゃない、わるいいたずらをして知らん面《かお》をしていますよ。あんな子を退校させるくらいなら、そんな奴らを片《かた》っ端《ぱし》から放逐でもしなくっちゃ不公平でさあ」
「それもそうだね」
「それでどうです上野へ虎の鳴き声をききに行くのは」
「虎かい」
「ええ、聞きに行きましょう。実は二三日中《にさんちうち》にちょっと帰国しなければならない事が出来ましたから、当分どこへも御伴《おとも》は出来ませんから、今日は是非いっしょに散歩をしようと思って来たんです」
「そうか帰るのかい、用事でもあるのかい」
「ええちょっと用事が出来たんです。――ともかくも出ようじゃありませんか」
「そう。それじゃ出ようか」
「さあ行きましょう。今日は私が晩餐《ばんさん》を奢《おご》りますから、――それから運動をして上野へ行くとちょうど好い刻限です」としきりに促《うな》がすものだから、主人もその気になって、いっしょに出掛けて行った。あとでは細君と雪江さんが遠慮のない声でげらげらけらけらからからと笑っていた。
十一
床の間の前に碁盤を中に据《す》えて迷亭君と独仙君が対坐している。
「ただはやらない。負けた方が何か奢《おご》るんだぜ。いいかい」と迷亭君が念を押すと、独仙君は例のごとく山羊髯《やぎひげ》を引っ張りながら、こう云《い》った。
「そんな事をすると、せっかくの清戯《せいぎ》を俗了《ぞくりょう》してしまう。かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。成敗《せいはい》を度外において、白雲の自然に岫《しゅう》を出でて冉々《ぜんぜん》たるごとき心持ちで一局を了してこそ、個中《こちゅう》の味《あじわい》はわかるものだよ」
「また来たね。そんな仙骨を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。宛然《えんぜん》たる列仙伝中の人物だね」
「無絃《むげん》の素琴《そきん》を弾じさ」
「無線の電信をかけかね」
「とにかく、やろう」
「君が白を持つのかい」
「どっちでも構わない」
「さすがに仙人だけあって鷹揚《おうよう》だ。君が白なら自然の順序として僕は黒だね。さあ、来たまえ。どこからでも来たまえ」
「黒から打つのが法則だよ」
「なるほど。しからば謙遜《けんそん》して、定石《じょうせき》にここいらから行こう」
「定石にそんなのはないよ」
「なくっても構わない。新奇発明の定石だ」
吾輩は世間が狭いから碁盤と云うものは近来になって始めて拝見したのだが、考えれば考えるほど妙に出来ている。広くもない四角な板を狭苦しく四角に仕切って、目が眩《くら》むほどごたごたと黒白《こくびゃく》の石をならべる。そうして勝ったとか、負けたとか、死んだとか、生きたとか、あぶら汗を流して騒いでいる。高が一尺四方くらいの面積だ。猫の前足で掻《か》き散らしても滅茶滅茶になる。引き寄せて結べば草の庵《いおり》にて、解くればもとの野原なりけり。入らざるいたずらだ。懐手《ふところで》をして盤を眺めている方が遥《はる》かに気楽である。それも最初の三四十|目《もく》は、石の並べ方では別段|目障《めざわ》りにもならないが、いざ天下わけ目と云う間際《まぎわ》に覗《のぞ》いて見ると、いやはや御気の毒な有様だ。白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、御互にギューギュー云っている。窮屈だからと云って、隣りの奴にどいて貰う訳にも行かず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、どうする事も出来ない。碁を発明したものは人間で、人間の嗜好《しこう》が局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると云っても差支《さしつか》えない。人間の性質が碁石の運命で推知《すいち》する事が出来るものとすれば、人間とは天空海濶《てんくうかいかつ》の世界を、我からと縮めて、己《おの》れの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工《こがたなざいく》で自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない。人間とはしいて苦痛を求めるものであると一言《いちごん》に評してもよかろう。
呑気《のんき》なる迷亭君と、禅機《ぜんき》ある独仙君とは、どう云う了見か、今日に限って戸棚から古碁盤を引きずり出して、この暑苦しいいたずらを始めたのである。さすがに御両人|御揃《おそろ》いの事だから、最初のうちは各自任意の行動をとって、盤の上を白石と黒石が自由自在に飛び交わしていたが、盤の広さには限りがあって、横竪《よこたて》の目盛りは一手《ひとて》ごとに埋《うま》って行くのだから、いかに呑気でも、いかに禅機があっても、苦しくなるのは当り前である。
「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ這入《はい》ってくる法はない」
「禅坊主の碁にはこんな法はないかも知れないが、本因坊《ほんいんぼう》の流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ」
「しかし死ぬばかりだぜ」
「臣死をだも辞せず、いわんや※[#「彑/(「比」の間に「矢」)」、第3水準1−84−28]肩《ていけん》をやと、一つ、こう行くかな」
「そうおいでになったと、よろしい。薫風|南《みんなみ》より来って、殿閣|微涼《びりょう》を生ず。こう、ついでおけば大丈夫なものだ」
「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気遣《きづかい》はなかろうと思った。ついで、くりゃるな八幡鐘《はちまんがね》をと、こうやったら、どうするかね」
「どうするも、こうするもないさ。一剣天に倚《よ》って寒し――ええ、面倒だ。思い切って、切ってしまえ」
「やや、大変大変。そこを切られちゃ死んでしまう。おい冗談《じょうだん》じゃない。ちょっと待った」
「それだから、さっきから云わん事じゃない。こうなってるところへは這入《はい》れるものじゃないんだ」
「這入って失敬|仕《つかまつ》り候。ちょっとこの白をとってくれたまえ」
「それも待つのかい」
「ついでにその隣りのも引き揚げて見てくれたまえ」
「ずうずうしいぜ、おい」
「Do you see the boy か。――なに君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭い事を言わずに、引き揚げてくれたまえな。死ぬか生きるかと云う場合だ。しばらく、しばらくって花道《はなみち》から馳《か》け出してくるところだよ」
「そんな事は僕は知らんよ」
「知らなくってもいいか
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