謔ュ懸けます」
「先生もやるんですか」
「ええ、一つやって見ましょうか。誰でも懸《かか》らなければならん理窟《りくつ》のものです。あなたさえ善《よ》ければ懸けて見ましょう」
「そいつは面白い、一つ懸けて下さい。私《わたし》もとうから懸かって見たいと思ったんです。しかし懸かりきりで眼が覚《さ》めないと困るな」
「なに大丈夫です。それじゃやりましょう」
相談はたちまち一決して、主人はいよいよ催眠術を懸けらるる事となった。吾輩は今までこんな事を見た事がないから心ひそかに喜んでその結果を座敷の隅から拝見する。先生はまず、主人の眼からかけ始めた。その方法を見ていると、両眼《りょうがん》の上瞼《うわまぶた》を上から下へと撫《な》でて、主人がすでに眼を眠《ねむ》っているにも係《かかわ》らず、しきりに同じ方向へくせを付けたがっている。しばらくすると先生は主人に向って「こうやって、瞼《まぶた》を撫でていると、だんだん眼が重たくなるでしょう」と聞いた。主人は「なるほど重くなりますな」と答える。先生はなお同じように撫でおろし、撫でおろし「だんだん重くなりますよ、ようござんすか」と云う。主人もその気になったものか、何とも云わずに黙っている。同じ摩擦法はまた三四分繰り返される。最後に甘木先生は「さあもう開《あ》きませんぜ」と云われた。可哀想《かわいそう》に主人の眼はとうとう潰《つぶ》れてしまった。「もう開かんのですか」「ええもうあきません」主人は黙然《もくねん》として目を眠っている。吾輩は主人がもう盲目《めくら》になったものと思い込んでしまった。しばらくして先生は「あけるなら開いて御覧なさい。とうていあけないから」と云われる。「そうですか」と云うが早いか主人は普通の通り両眼《りょうがん》を開いていた。主人はにやにや笑いながら「懸かりませんな」と云うと甘木先生も同じく笑いながら「ええ、懸りません」と云う。催眠術はついに不成功に了《おわ》る。甘木先生も帰る。
その次に来たのが――主人のうちへこのくらい客の来た事はない。交際の少ない主人の家にしてはまるで嘘《うそ》のようである。しかし来たに相違ない。しかも珍客が来た。吾輩がこの珍客の事を一言《いちごん》でも記述するのは単に珍客であるがためではない。吾輩は先刻申す通り大事件の余瀾《よらん》を描《えが》きつつある。しかしてこの珍客はこの余瀾を描くに方《あた》って逸すべからざる材料である。何と云う名前か知らん、ただ顔の長い上に、山羊《やぎ》のような髯《ひげ》を生《は》やしている四十前後の男と云えばよかろう。迷亭の美学者たるに対して、吾輩はこの男を哲学者と呼ぶつもりである。なぜ哲学者と云うと、何も迷亭のように自分で振り散らすからではない、ただ主人と対話する時の様子を拝見しているといかにも哲学者らしく思われるからである。これも昔《むか》しの同窓と見えて両人共《ふたりとも》応対振りは至極《しごく》打《う》ち解《と》けた有様だ。
「うん迷亭か、あれは池に浮いてる金魚麩《きんぎょふ》のようにふわふわしているね。せんだって友人を連れて一面識もない華族の門前を通行した時、ちょっと寄って茶でも飲んで行こうと云って引っ張り込んだそうだが随分|呑気《のんき》だね」
「それでどうしたい」
「どうしたか聞いても見なかったが、――そうさ、まあ天稟《てんぴん》の奇人だろう、その代り考も何もない全く金魚麩だ。鈴木か、――あれがくるのかい、へえー、あれは理窟《りくつ》はわからんが世間的には利口な男だ。金時計は下げられるたちだ。しかし奥行きがないから落ちつきがなくって駄目だ。円滑《えんかつ》円滑と云うが、円滑の意味も何もわかりはせんよ。迷亭が金魚麩ならあれは藁《わら》で括《くく》った蒟蒻《こんにゃく》だね。ただわるく滑《なめら》かでぶるぶる振《ふる》えているばかりだ」
主人はこの奇警《きけい》な比喩《ひゆ》を聞いて、大《おおい》に感心したものらしく、久し振りでハハハと笑った。
「そんなら君は何だい」
「僕か、そうさな僕なんかは――まあ自然薯《じねんじょ》くらいなところだろう。長くなって泥の中に埋《うま》ってるさ」
「君は始終泰然として気楽なようだが、羨《うらや》ましいな」
「なに普通の人間と同じようにしているばかりさ。別に羨まれるに足るほどの事もない。ただありがたい事に人を羨む気も起らんから、それだけいいね」
「会計は近頃豊かかね」
「なに同じ事さ。足るや足らずさ。しかし食うているから大丈夫。驚かないよ」
「僕は不愉快で、肝癪《かんしゃく》が起ってたまらん。どっちを向いても不平ばかりだ」
「不平もいいさ。不平が起ったら起してしまえば当分はいい心持ちになれる。人間はいろいろだから、そう自分のように人にもなれと勧めたって、なれるものではない。箸《はし》は人と同じように持たんと飯が食いにくいが、自分の麺麭《パン》は自分の勝手に切るのが一番都合がいいようだ。上手《じょうず》な仕立屋で着物をこしらえれば、着たてから、からだに合ったのを持ってくるが、下手《へた》の裁縫屋《したてや》に誂《あつら》えたら当分は我慢しないと駄目さ。しかし世の中はうまくしたもので、着ているうちには洋服の方で、こちらの骨格に合わしてくれるから。今の世に合うように上等な両親が手際《てぎわ》よく生んでくれれば、それが幸福なのさ。しかし出来損《できそ》こなったら世の中に合わないで我慢するか、または世の中で合わせるまで辛抱するよりほかに道はなかろう」
「しかし僕なんか、いつまで立っても合いそうにないぜ、心細いね」
「あまり合わない背広《せびろ》を無理にきると綻《ほころ》びる。喧嘩《けんか》をしたり、自殺をしたり騒動が起るんだね。しかし君なんかただ面白くないと云うだけで自殺は無論しやせず、喧嘩だってやった事はあるまい。まあまあいい方だよ」
「ところが毎日喧嘩ばかりしているさ。相手が出て来なくっても怒っておれば喧嘩だろう」
「なるほど一人喧嘩《ひとりげんか》だ。面白いや、いくらでもやるがいい」
「それがいやになった」
「そんならよすさ」
「君の前だが自分の心がそんなに自由になるものじゃない」
「まあ全体何がそんなに不平なんだい」
主人はここにおいて落雲館事件を始めとして、今戸焼《いまどやき》の狸《たぬき》から、ぴん助、きしゃごそのほかあらゆる不平を挙げて滔々《とうとう》と哲学者の前に述べ立てた。哲学者先生はだまって聞いていたが、ようやく口を開《ひら》いて、かように主人に説き出した。
「ぴん助やきしゃごが何を云ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。どうせ下らんのだから。中学の生徒なんか構う価値があるものか。なに妨害になる。だって談判しても、喧嘩をしてもその妨害はとれんのじゃないか。僕はそう云う点になると西洋人より昔《むか》しの日本人の方がよほどえらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃|大分《だいぶ》流行《はや》るが、あれは大《だい》なる欠点を持っているよ。第一積極的と云ったって際限がない話しだ。いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境《さかい》にいけるものじゃない。向《むこう》に檜《ひのき》があるだろう。あれが目障《めざわ》りになるから取り払う。とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪《しゃく》に触る。どこまで行っても際限のない話しさ。西洋人の遣《や》り口《くち》はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭《ほうてい》へ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまで焦《あせ》ったって片付く事があるものか。寡人政治《かじんせいじ》がいかんから、代議政体《だいぎせいたい》にする。代議政体がいかんから、また何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと云って隧道《トンネル》を堀る。交通が面倒だと云って鉄道を布《し》く。それで永久満足が出来るものじゃない。さればと云って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出来るものか。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大《おおい》に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云う一大仮定の下《もと》に発達しているのだ。親子の関係が面白くないと云って欧洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。親子の関係は在来のままでとうてい動かす事が出来んものとして、その関係の下《もと》に安心を求むる手段を講ずるにある。夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の区別もその通り、自然その物を観《み》るのもその通り。――山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だニ云う心持ちを養成するのだ。それだから君見給え。禅家《ぜんけ》でも儒家《じゅか》でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日《らくじつ》を回《めぐ》らす事も、加茂川を逆《さか》に流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。ぴん助なんか愚《ぐ》な事を云ったらこの馬鹿野郎とすましておれば仔細《しさい》なかろう。何でも昔しの坊主は人に斬《き》り付けられた時|電光影裏《でんこうえいり》に春風《しゅんぷう》を斬るとか、何とか洒落《しゃ》れた事を云ったと云う話だぜ。心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出来るのじゃないかしらん。僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤まっているようだ。現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないじゃないか。君の権力であの学校を閉鎖するか、または先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》の問題になる。換言すると君が金持に頭を下げなければならんと云う事になる。衆を恃《たの》む小供に恐れ入らなければならんと云う事になる。君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと云うのがそもそも君の不平の種さ。どうだい分ったかい」
主人は分ったとも、分らないとも言わずに聞いていた。珍客が帰ったあとで書斎へ這入《はい》って書物も読まずに何か考えていた。
鈴木の藤《とう》さんは金と衆とに従えと主人に教えたのである。甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言《じょごん》したのである。最後の珍客は消極的の修養で安心を得ろと説法したのである。主人がいずれを択《えら》ぶかは主人の随意である。ただこのままでは通されないに極《き》まっている。
九
主人は痘痕面《あばたづら》である。御維新前《ごいっしんまえ》はあばた[#「あばた」に傍点]も大分《だいぶ》流行《はや》ったものだそうだが日英同盟の今日《こんにち》から見ると、こんな顔はいささか時候|後《おく》れの感がある。あばた[#「あばた」に傍点]の衰退は人口の増殖と反比例して近き将来には全くその迹《あと》を絶つに至るだろうとは医学上の統計から精密に割り出されたる結論であって、吾輩のごとき猫といえども毫《ごう》も疑を挟《さしはさ》む余地のないほどの名論である。現今地球上にあばたっ面《つら》を有して生息している人間は何人くらいあるか知らんが、吾輩が交際の区域内において打算して見ると、猫には一匹もない。人間にはたった一人ある。しかしてその一人が即《すなわ》ち主人である。はなはだ気の毒である。
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