明《こうめい》の軍略で攻めつける。約三十分この順序を繰り返して、身動きも出来なくなったところを見すましてちょっと口へ啣《くわ》えて振って見る。それからまた吐き出す。今度は地面の上へ寝たぎり動かないから、こっちの手で突っ付いて、その勢で飛び上がるところをまた抑えつける。これもいやになってから、最後の手段としてむしゃむしゃ食ってしまう。ついでだから蟷螂を食った事のない人に話しておくが、蟷螂はあまり旨《うま》い物ではない。そうして滋養分も存外少ないようである。蟷螂狩《とうろ、が》りに次いで蝉取《せみと》りと云う運動をやる。単に蝉と云ったところが同じ物ばかりではない。人間にも油野郎《あぶらやろう》、みんみん野郎、おしいつくつく野郎があるごとく、蝉にも油蝉、みんみん、おしいつくつくがある。油蝉はしつこくて行《い》かん。みんみんは横風《おうふう》で困る。ただ取って面白いのはおしいつくつくである。これは夏の末にならないと出て来ない。八《や》つ口《くち》の綻《ほころ》びから秋風《あきかぜ》が断わりなしに膚《はだ》を撫《な》でてはっくしょ風邪《かぜ》を引いたと云う頃|熾《さかん》に尾を掉《ふ》り立ててなく。善《よ》く鳴く奴で、吾輩から見ると鳴くのと猫にとられるよりほかに天職がないと思われるくらいだ。秋の初はこいつを取る。これを称して蝉取り運動と云う。ちょっと諸君に話しておくがいやしくも蝉と名のつく以上は、地面の上に転《ころ》がってはおらん。地面の上に落ちているものには必ず蟻《あり》がついている。吾輩の取るのはこの蟻の領分に寝転んでいる奴ではない。高い木の枝にとまって、おしいつくつくと鳴いている連中を捕《とら》えるのである。これもついでだから博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くのか、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によっては蝉の研究上少なからざる関係があると思う。人間の猫に優《まさ》るところはこんなところに存するので、人間の自《みずか》ら誇る点もまたかような点にあるのだから、今即答が出来ないならよく考えておいたらよかろう。もっとも蝉取り運動上はどっちにしても差《さ》し支《つか》えはない。ただ声をしるべに木を上《のぼ》って行って、先方が夢中になって鳴いているところをうんと捕えるばかりだ。これはもっとも簡略な運動に見えてなかなか骨の折れる運動である。吾輩は四本の足を有しているから大地を行く事においてはあえて他の動物には劣るとは思わない。少なくとも二本と四本の数学的智識から判断して見て人間には負けないつもりである。しかし木登りに至っては大分《だいぶ》吾輩より巧者な奴がいる。本職の猿は別物として、猿の末孫《ばっそん》たる人間にもなかなか侮《あなど》るべからざる手合《てあい》がいる。元来が引力に逆らっての無理な事業だから出来なくても別段の恥辱《ちじょく》とは思わんけれども、蝉取り運動上には少なからざる不便を与える。幸に爪と云う利器があるので、どうかこうか登りはするものの、はたで見るほど楽ではござらん。のみならず蝉は飛ぶものである。蟷螂君《かまきりくん》と違って一たび飛んでしまったが最後、せっかくの木登りも、木登らずと何の択《えら》むところなしと云う悲運に際会する事がないとも限らん。最後に時々蝉から小便をかけられる危険がある。あの小便がややともすると眼を覘《ねら》ってしょぐってくるようだ。逃げるのは仕方がないから、どうか小便ばかりは垂れんように致したい。飛ぶ間際《まぎわ》に溺《いば》りを仕《つかまつ》るのは一体どう云う心理的状態の生理的器械に及ぼす影響だろう。やはりせつなさのあまりかしらん。あるいは敵の不意に出でて、ちょっと逃げ出す余裕を作るための方便か知らん。そうすると烏賊《いか》の墨を吐き、ベランメーの刺物《ほりもの》を見せ、主人が羅甸語《ラテンご》を弄する類《たぐい》と同じ綱目《こうもく》に入るべき事項となる。これも蝉学上|忽《ゆる》かせにすべからざる問題である。充分研究すればこれだけでたしかに博士論文の価値はある。それは余事だから、そのくらいにしてまた本題に帰る。蝉のもっとも集注するのは――集注がおかしければ集合だが、集合は陳腐《ちんぷ》だからやはり集注にする。――蝉のもっとも集注するのは青桐《あおぎり》である。漢名を梧桐《ごとう》と号するそうだ。ところがこの青桐は葉が非常に多い、しかもその葉は皆|団扇《うちわ》くらいな大《おおき》さであるから、彼等が生《お》い重なると枝がまるで見えないくらい茂っている。これがはなはだ蝉取り運動の妨害になる。声はすれども姿は見えずと云う俗謡《ぞくよう》はとくに吾輩のために作った者ではなかろうかと怪しまれるくらいである。吾輩は仕方がないからただ声を知るべに行く。下から一間ばかりのところで梧桐は注文通り二叉《ふたまた》になっているから、ここで一休息《ひとやすみ》して葉裏から蝉の所在地を探偵する。もっともここまで来るうちに、がさがさと音を立てて、飛び出す気早な連中がいる。一羽飛ぶともういけない。真似をする点において蝉は人間に劣らぬくらい馬鹿である。あとから続々飛び出す。漸々《ようよう》二叉《ふたまた》に到着する時分には満樹|寂《せき》として片声《へんせい》をとどめざる事がある。かつてここまで登って来て、どこをどう見廻わしても、耳をどう振っても蝉気《せみけ》がないので、出直すのも面倒だからしばらく休息しようと、叉《また》の上に陣取って第二の機会を待ち合せていた轣Aいつの間《ま》にか眠くなって、つい黒甜郷裡《こくてんきょうり》に遊んだ。おやと思って眼が醒《さ》めたら、二叉の黒甜郷裡《こくてんきょうり》から庭の敷石の上へどたりと落ちていた。しかし大概は登る度に一つは取って来る。ただ興味の薄い事には樹の上で口に啣《くわ》えてしまわなくてはならん。だから下へ持って来て吐き出す時は大方《おおかた》死んでいる。いくらじゃらしても引っ掻《か》いても確然たる手答がない。蝉取りの妙味はじっと忍んで行っておしい君《くん》が一生懸命に尻尾《しっぽ》を延ばしたり縮《ちぢ》ましたりしているところを、わっと前足で抑《おさ》える時にある。この時つくつく君《くん》は悲鳴を揚げて、薄い透明な羽根を縦横無尽に振う。その早い事、美事なる事は言語道断、実に蝉世界の一偉観である。余はつくつく君を抑える度《たび》にいつでも、つくつく君に請求してこの美術的演芸を見せてもらう。それがいやになるとご免を蒙《こうむ》って口の内へ頬張《ほおば》ってしまう。蝉によると口の内へ這入《はい》ってまで演芸をつづけているのがある。蝉取りの次にやる運動は松滑《まつすべ》りである。これは長くかく必要もないから、ちょっと述べておく。松滑りと云うと松を滑るように思うかも知れんが、そうではないやはり木登りの一種である。ただ蝉取りは蝉を取るために登り、松滑りは、登る事を目的として登る。これが両者の差である。元来松は常磐《ときわ》にて最明寺《さいみょうじ》の御馳走《ごちそう》をしてから以来|今日《こんにち》に至るまで、いやにごつごつしている。従って松の幹ほど滑らないものはない。手懸りのいいものはない。足懸りのいいものはない。――換言すれば爪懸《つまがか》りのいいものはない。その爪懸りのいい幹へ一気呵成《いっきかせい》に馳《か》け上《あが》る。馳け上っておいて馳け下がる。馳け下がるには二法ある。一はさかさになって頭を地面へ向けて下りてくる。一は上《のぼ》ったままの姿勢をくずさずに尾を下にして降りる。人間に問うがどっちがむずかしいか知ってるか。人間のあさはかな了見《りょうけん》では、どうせ降りるのだから下向《したむき》に馳け下りる方が楽だと思うだろう。それが間違ってる。君等は義経が鵯越《ひよどりごえ》を落《お》としたことだけを心得て、義経でさえ下を向いて下りるのだから猫なんぞは無論|下《し》た向きでたくさんだと思うのだろう。そう軽蔑《けいべつ》するものではない。猫の爪はどっちへ向いて生《は》えていると思う。みんな後《うし》ろへ折れている。それだから鳶口《とびぐち》のように物をかけて引き寄せる事は出来るが、逆に押し出す力はない。今吾輩が松の木を勢よく馳け登ったとする。すると吾輩は元来地上の者であるから、自然の傾向から云えば吾輩が長く松樹の巓《いただき》に留《とど》まるを許さんに相違ない、ただおけば必ず落ちる。しかし手放しで落ちては、あまり早過ぎる。だから何等かの手段をもってこの自然の傾向を幾分かゆるめなければならん。これ即《すなわ》ち降りるのである。落ちるのと降りるのは大変な違のようだが、その実思ったほどの事ではない。落ちるのを遅くすると降りるので、降りるのを早くすると落ちる事になる。落ちると降りるのは、ち[#「ち」に傍点]とり[#「り」に傍点]の差である。吾輩は松の木の上から落ちるのはいやだから、落ちるのを緩《ゆる》めて降りなければならない。即《すなわ》ちあるものをもって落ちる速度に抵抗しなければならん。吾輩の爪は前《ぜん》申す通り皆|後《うし》ろ向きであるから、もし頭を上にして爪を立てればこの爪の力は悉《ことごと》く、落ちる勢に逆《さから》って利用出来る訳である。従って落ちるが変じて降りるになる。実に見易《みやす》き道理である。しかるにまた身を逆《さか》にして義経流に松の木|越《ごえ》をやって見給え。爪はあっても役には立たん。ずるずる滑って、どこにも自分の体量を持ち答える事は出来なくなる。ここにおいてかせっかく降りようと企《くわだ》てた者が変化して落ちる事になる。この通り鵯越《ひよどりごえ》はむずかしい。猫のうちでこの芸が出来る者は恐らく吾輩のみであろう。それだから吾輩はこの運動を称して松滑りと云うのである。最後に垣巡《かきめぐ》りについて一言《いちげん》する。主人の庭は竹垣をもって四角にしきられている。椽側《えんがわ》と平行している一片《いっぺん》は八九間もあろう。左右は双方共四間に過ぎん。今吾輩の云った垣巡りと云う運動はこの垣の上を落ちないように一周するのである。これはやり損《そこな》う事もままあるが、首尾よく行くとお慰《なぐさみ》になる。ことに所々に根を焼いた丸太が立っているから、ちょっと休息に便宜《べんぎ》がある。今日は出来がよかったので朝から昼までに三|返《べん》やって見たが、やるたびにうまくなる。うまくなる度《たび》に面白くなる。とうとう四ヤ繰り返したが、四返目に半分ほど巡《まわ》りかけたら、隣の屋根から烏が三羽飛んで来て、一間ばかり向うに列を正してとまった。これは推参な奴だ。人の運動の妨《さまたげ》をする、ことにどこの烏だか籍《せき》もない分在《ぶんざい》で、人の塀へとまるという法があるもんかと思ったから、通るんだおい除《の》きたまえと声をかけた。真先の烏はこっちを見てにやにや笑っている。次のは主人の庭を眺《なが》めている。三羽目は嘴《くちばし》を垣根の竹で拭《ふ》いている。何か食って来たに違ない。吾輩は返答を待つために、彼等に三分間の猶予《ゆうよ》を与えて、垣の上に立っていた。烏は通称を勘左衛門と云うそうだが、なるほど勘左衛門だ。吾輩がいくら待ってても挨拶もしなければ、飛びもしない。吾輩は仕方がないから、そろそろ歩き出した。すると真先の勘左衛門がちょいと羽を広げた。やっと吾輩の威光に恐れて逃げるなと思ったら、右向から左向に姿勢をかえただけである。この野郎! 地面の上ならその分に捨ておくのではないが、いかんせん、たださえ骨の折れる道中に、勘左衛門などを相手にしている余裕がない。といってまた立留まって三羽が立ち退《の》くのを待つのもいやだ。第一そう待っていては足がつづかない。先方は羽根のある身分であるから、こんな所へはとまりつけている。従って気に入ればいつまでも逗留《とうりゅう》するだろう。こっちはこれで四返目だたださえ大分《だいぶ》労《つか》れている。いわんや綱渡りにも劣らざる芸当兼運動をやるのだ。何等の障害物がなくてさえ落ちんとは保証が出来んのに、こ
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