町内の同族共の夢安からぬまで浮かれ歩《あ》るく夜もあるとか云うが、吾輩はまだかかる心的変化に遭逢《そうほう》した事はない。そもそも恋は宇宙的の活力である。上《かみ》は在天の神ジュピターより下《しも》は土中に鳴く蚯蚓《みみず》、おけらに至るまでこの道にかけて浮身を窶《やつ》すのが万物の習いであるから、吾輩どもが朧《おぼろ》うれしと、物騒な風流気を出すのも無理のない話しである。回顧すればかく云《い》う吾輩も三毛子《みけこ》に思い焦《こ》がれた事もある。三角主義の張本金田君の令嬢阿倍川の富子さえ寒月君に恋慕したと云う噂《うわさ》である。それだから千金の春宵《しゅんしょう》を心も空に満天下の雌猫雄猫《めねこおねこ》が狂い廻るのを煩悩《ぼんのう》の迷《まよい》のと軽蔑《けいべつ》する念は毛頭ないのであるが、いかんせん誘われてもそんな心が出ないから仕方がない。吾輩目下の状態はただ休養を欲するのみである。こう眠くては恋も出来ぬ。のそのそと小供の布団《ふとん》の裾《すそ》へ廻って心地快《ここちよ》く眠る。……
 ふと眼を開《あ》いて見ると主人はいつの間《ま》にか書斎から寝室へ来て細君の隣に延べてある布団《ふとん》の中にいつの間にか潜《もぐ》り込んでいる。主人の癖として寝る時は必ず横文字の小本《こほん》を書斎から携《たずさ》えて来る。しかし横になってこの本を二|頁《ページ》と続けて読んだ事はない。ある時は持って来て枕元へ置いたなり、まるで手を触れぬ事さえある。一行も読まぬくらいならわざわざ提《さ》げてくる必要もなさそうなものだが、そこが主人の主人たるところでいくら細君が笑っても、止せと云っても、決して承知しない。毎夜読まない本をご苦労千万にも寝室まで運んでくる。ある時は慾張って三四冊も抱えて来る。せんだってじゅうは毎晩ウェブスターの大字典さえ抱えて来たくらいである。思うにこれは主人の病気で贅沢《ぜいたく》な人が竜文堂《りゅうぶんどう》に鳴る松風の音を聞かないと寝つかれないごとく、主人も書物を枕元に置かないと眠れないのであろう、して見ると主人に取っては書物は読む者ではない眠を誘う器械である。活版の睡眠剤である。
 今夜も何か有るだろうと覗《のぞ》いて見ると、赤い薄い本が主人の口髯《くちひげ》の先につかえるくらいな地位に半分開かれて転がっている。主人の左の手の拇指《おやゆび》が本の間に挟《はさ》まったままであるところから推《お》すと奇特にも今夜は五六行読んだものらしい。赤い本と並んで例のごとくニッケルの袂時計《たもとどけい》が春に似合わぬ寒き色を放っている。
 細君は乳呑児《ちのみご》を一尺ばかり先へ放り出して口を開《あ》いていびきをかいて枕を外《はず》している。およそ人間において何が見苦しいと云って口を開けて寝るほどの不体裁はあるまいと思う。猫などは生涯《しょうがい》こんな恥をかいた事がない。元来口は音を出すため鼻は空気を吐呑《とどん》するための道具である。もっとも北の方へ行くと人間が無精になってなるべく口をあくまいと倹約をする結果鼻で言語を使うようなズーズーもあるが、鼻を閉塞《へいそく》して口ばかりで呼吸の用を弁じているのはズーズーよりも見ともないと思う。第一天井から鼠《ねずみ》の糞《ふん》でも落ちた時危険である。
 小供の方はと見るとこれも親に劣らぬ体《てい》たらくで寝そべっている。姉のとん子は、姉の権利はこんなものだと云わぬばかりにうんと右の手を延ばして妹の耳の上へのせている。妹のすん子はその復讐《ふくしゅう》に姉の腹の上に片足をあげて踏反《ふんぞ》り返っている。双方共寝た時の姿勢より九十度はたしかに廻転している。しかもこの不自然なる姿勢を維持しつつ両人とも不平も云わずおとなしく熟睡している。
 さすがに春の灯火《ともしび》は格別である。天真|爛漫《らんまん》ながら無風流極まるこの光景の裏《うち》に良夜を惜しめとばかり床《ゆか》しげに輝やいて見える。もう何時《なんじ》だろうと室《へや》の中を見廻すと四隣はしんとしてただ聞えるものは柱時計と細君のいびきと遠方で下女の歯軋《はぎし》りをする音のみである。この下女は人から歯軋りをすると云われるといつでもこれを否定する女である。私は生れてから今日《こんにち》に至るまで歯軋りをした覚《おぼえ》はございませんと強情を張って決して直しましょうとも御気の毒でございますとも云わず、ただそんな覚はございませんと主張する。なるほど寝ていてする芸だから覚はないに違ない。しかし事実は覚がなくても存在する事があるから困る。世の中には悪い事をしておりながら、自分はどこまでも善人だと考えているものがある。これは自分が罪がないと自信しているのだから無邪気で結構ではあるが、人の困る事実はいかに無邪気でも滅却する訳には行かぬ。こう云う紳士淑女はこの下女の系統に属するのだと思う。――夜《よ》は大分更《だいぶふ》けたようだ。
 台所の雨戸にトントンと二返ばかり軽く中《あた》った者がある。はてな今頃人の来るはずがない。大方例の鼠だろう、鼠なら捕《と》らん事に極めているから勝手にあばれるが宜《よろ》しい。――またトントンと中《あた》る。どうも鼠らしくない。鼠としても大変用心深い鼠である。主人の内の鼠は、主人の出る学校の生徒のごとく日中《にっちゅう》でも夜中《やちゅう》でも乱暴|狼藉《ろうぜき》の練修に余念なく、憫然《びんぜん》なる主人の夢を驚破《きょうは》するのを天職のごとく心得ている連中だから、かくのごとく遠慮する訳がない。今のはたしかに鼠ではない。せんだってなどは主人の寝室にまで闖入《ちんにゅう》して高からぬ主人の鼻の頭を囓《か》んで凱歌《がいか》を奏して引き上げたくらいの鼠にしてはあまり臆病すぎる。決して鼠ではない。今度はギーと雨戸を下から上へ持ち上げる音がする、同時に腰障子を出来るだけ緩《ゆる》やかに、溝に添うて滑《すべ》らせる。いよいよ鼠ではない。人間だ。この深夜に人間が案内も乞わず戸締《とじまり》を外《は》ずして御光来になるとすれば迷亭先生や鈴木君ではないに極《きま》っている。御高名だけはかねて承《うけたま》わっている泥棒陰士《どろぼういんし》ではないか知らん。いよいよ陰士とすれば早く尊顔《そんがん》を拝したいものだ。陰士は今や勝手の上に大いなる泥足を上げて二足《ふたあし》ばかり進んだ模様である。三足目と思う頃|揚板《あげいた》に蹶《つまず》いてか、ガタリと夜《よる》に響くような音を立てた。吾輩の背中《せなか》の毛が靴刷毛《くつばけ》で逆に擦《こ》すられたような心持がする。しばらくは足音もしない。細君を見ると未《ま》だ口をあいて太平の空気を夢中に吐呑《とどん》している。主人は赤い本に拇指《おやゆび》を挟《はさ》まれた夢でも見ているのだろう。やがて台所でマチを擦《す》る音が聞える。陰士でも吾輩ほど夜陰に眼は利《き》かぬと見える。勝手がわるくて定めし不都合だろう。
 この時吾輩は蹲踞《うずく》まりながら考えた。陰士は勝手から茶の間の方面へ向けて出現するのであろうか、または左へ折れ玄関を通過して書斎へと抜けるであろうか。――足音は襖《ふすま》の音と共に椽側《えんがわ》へ出た。陰士はいよいよ書斎へ這入《はい》った。それぎり音も沙汰もない。
 吾輩はこの間《ま》に早く主人夫婦を起してやりたいものだとようやく気が付いたが、さてどうしたら起きるやら、一向《いっこう》要領を得ん考のみが頭の中に水車《みずぐるま》の勢で廻転するのみで、何等の分別も出ない。布団《ふとん》の裾《すそ》を啣《くわ》えて振って見たらと思って、二三度やって見たが少しも効用がない。冷たい鼻を頬に擦《す》り付けたらと思って、主人の顔の先へ持って行ったら、主人は眠ったまま、手をうんと延ばして、吾輩の鼻づらを否《い》やと云うほど突き飛ばした。鼻は猫にとっても急所である。痛む事おびただしい。此度《こんど》は仕方がないからにゃーにゃーと二返ばかり鳴いて起こそうとしたが、どう云うものかこの時ばかりは咽喉《のど》に物が痞《つか》えて思うような声が出ない。やっとの思いで渋りながら低い奴を少々出すと驚いた。肝心《かんじん》の主人は覚《さ》める気色《けしき》もないのに突然陰士の足音がし出した。ミチリミチリと椽側を伝《つた》って近づいて来る。いよいよ来たな、こうなってはもう駄目だと諦《あき》らめて、襖《ふすま》と柳行李《やなぎごうり》の間にしばしの間身を忍ばせて動静を窺《うか》がう。
 陰士の足音は寝室の障子の前へ来てぴたりと已《や》む。吾輩は息を凝《こ》らして、この次は何をするだろうと一生懸命になる。あとで考えたが鼠を捕《と》る時は、こんな気分になれば訳はないのだ、魂《たましい》が両方の眼から飛び出しそうな勢《いきおい》である。陰士の御蔭で二度とない悟《さとり》を開いたのは実にありがたい。たちまち障子の桟《さん》の三つ目が雨に濡れたように真中だけ色が変る。それを透《すか》して薄紅《うすくれない》なものがだんだん濃く写ったと思うと、紙はいつか破れて、赤い舌がぺろりと見えた。舌はしばしの間《ま》に暗い中に消える。入れ代って何だか恐しく光るものが一つ、破れた孔《あな》の向側にあらわれる。疑いもなく陰士の眼である。妙な事にはその眼が、部屋の中にある何物をも見ないで、ただ柳行李の後《うしろ》に隠れていた吾輩のみを見つめているように感ぜられた。一分にも足らぬ間ではあったが、こう睨《にら》まれては寿命が縮まると思ったくらいである。もう我慢出来んから行李の影から飛出そうと決心した時、寝室の障子がスーと明いて待ち兼ねた陰士がついに眼前にあらわれた。
 吾輩は叙述の順序として、不時の珍客なる泥棒陰士その人をこの際諸君に御紹介するの栄誉を有する訳《わけ》であるが、その前ちょっと卑見を開陳《かいちん》してご高慮を煩《わずら》わしたい事がある。古代の神は全智全能と崇《あが》められている。ことに耶蘇教《ヤソきょう》の神は二十世紀の今日《こんにち》までもこの全智全能の面《めん》を被《かぶ》っている。しかし俗人の考うる全智全能は、時によると無智無能とも解釈が出来る。こう云うのは明かにパラドックスである。しかるにこのパラドックスを道破《どうは》した者は天地開闢《てんちかいびゃく》以来吾輩のみであろうと考えると、自分ながら満更《まんざら》な猫でもないと云う虚栄心も出るから、是非共ここにその理由を申し上げて、猫も馬鹿に出来ないと云う事を、高慢なる人間諸君の脳裏《のうり》に叩き込みたいと考える。天地万有は神が作ったそうな、して見れば人間も神の御製作であろう。現に聖書とか云うものにはその通りと明記してあるそうだ。さてこの人間について、人間自身が数千年来の観察を積んで、大《おおい》に玄妙不思議がると同時に、ますます神の全智全能を承認するように傾いた事実がある。それは外《ほか》でもない、人間もかようにうじゃうじゃいるが同じ顔をしている者は世界中に一人もいない。顔の道具は無論|極《きま》っている、大《おおき》さも大概は似たり寄ったりである。換言すれば彼等は皆同じ材料から作り上げられている、同じ材料で出来ているにも関らず一人も同じ結果に出来上っておらん。よくまああれだけの簡単な材料でかくまで異様な顔を思いついた者だと思うと、製造家の伎倆《ぎりょう》に感服せざるを得ない。よほど独創的な想像力がないとこんな変化は出来んのである。一代の画工が精力を消耗《しょうこう》して変化を求めた顔でも十二三種以外に出る事が出来んのをもって推《お》せば、人間の製造を一手《いって》で受負《うけお》った神の手際《てぎわ》は格別な者だと驚嘆せざるを得ない。到底人間社会において目撃し得ざる底《てい》の伎倆であるから、これを全能的伎倆と云っても差《さ》し支《つか》えないだろう。人間はこの点において大《おおい》に神に恐れ入っているようである、なるほど人間の観察点から云えばもっともな恐れ入り方である。しかし猫の立場から云うと同一の事実がかえって神の無能力を証
前へ 次へ
全75ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング