巨人引力」に傍点]ばかり書いてはおらんさ。天然居士[#「天然居士」に傍点]の墓銘を撰《せん》しているところなんだ」と大袈裟《おおげさ》な事を云う。「天然居士[#「天然居士」に傍点]と云うなあやはり偶然童子[#「偶然童子」に傍点]のような戒名かね」と迷亭は不相変《あいかわらず》出鱈目《でたらめ》を云う。「偶然童子[#「偶然童子」に傍点]と云うのもあるのかい」「なに有りゃしないがまずその見当《けんとう》だろうと思っていらあね」「偶然童子[#「偶然童子」に傍点]と云うのは僕の知ったものじゃないようだが天然居士[#「天然居士」に傍点]と云うのは、君の知ってる男だぜ」「一体だれが天然居士[#「天然居士」に傍点]なんて名を付けてすましているんだい」「例の曾呂崎《そろさき》の事だ。卒業して大学院へ這入って空間論[#「空間論」に傍点]と云う題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。曾呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」「親友でもいいさ、決して悪いと云やしない。しかしその曾呂崎を天然居士に変化させたのは一体誰の所作《しょさ》だい」「僕さ、僕がつけてやったんだ。元来坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな」と天然居士はよほど雅《が》な名のように自慢する。迷亭は笑いながら「まあその墓碑銘《ぼひめい》と云う奴を見せ給え」と原稿を取り上げて「何だ……空間に生れ、空間を究《きわ》め、空間に死す。空たり間たり天然居士|噫《ああ》」と大きな声で読み上《あげ》る。「なるほどこりゃあ善《い》い、天然居士相当のところだ」主人は嬉しそうに「善いだろう」と云う。「この墓銘《ぼめい》を沢庵石《たくあんいし》へ彫《ほ》り付けて本堂の裏手へ力石《ちからいし》のように抛《ほう》り出して置くんだね。雅《が》でいいや、天然居士も浮かばれる訳だ」「僕もそうしようと思っているのさ」と主人は至極《しごく》真面目に答えたが「僕あちょっと失敬するよ、じき帰るから猫にでもからかっていてくれ給え」と迷亭の返事も待たず風然《ふうぜん》と出て行く。
計らずも迷亭先生の接待掛りを命ぜられて無愛想《ぶあいそ》な顔もしていられないから、ニャーニャーと愛嬌《あいきょう》を振り蒔《ま》いて膝《ひざ》の上へ這《は》い上《あが》って見た。すると迷亭は「イヨー大分《だいぶ》肥《ふと》ったな、どれ」と無作法《ぶさほう》にも吾輩の襟髪《えりがみ》を攫《つか》んで宙へ釣るす。「あと足をこうぶら下げては、鼠《ねずみ》は取れそうもない、……どうです奥さんこの猫は鼠を捕りますかね」と吾輩ばかりでは不足だと見えて、隣りの室《へや》の妻君に話しかける。「鼠どころじゃございません。御雑煮《おぞうに》を食べて踊りをおどるんですもの」と妻君は飛んだところで旧悪を暴《あば》く。吾輩は宙乗《ちゅうの》りをしながらも少々極りが悪かった。迷亭はまだ吾輩を卸《おろ》してくれない。「なるほど踊りでもおどりそうな顔だ。奥さんこの猫は油断のならない相好《そうごう》ですぜ。昔《むか》しの草双紙《くさぞうし》にある猫又《ねこまた》に似ていますよ」と勝手な事を言いながら、しきりに細君《さいくん》に話しかける。細君は迷惑そうに針仕事の手をやめて座敷へ出てくる。
「どうも御退屈様、もう帰りましょう」と茶を注《つ》ぎ易《か》えて迷亭の前へ出す。「どこへ行ったんですかね」「どこへ参るにも断わって行った事の無い男ですから分りかねますが、大方御医者へでも行ったんでしょう」「甘木さんですか、甘木さんもあんな病人に捕《つら》まっちゃ災難ですな」「へえ」と細君は挨拶のしようもないと見えて簡単な答えをする。迷亭は一向《いっこう》頓着しない。「近頃はどうです、少しは胃の加減が能《い》いんですか」「能《い》いか悪いか頓《とん》と分りません、いくら甘木さんにかかったって、あんなにジャムばかり甞《な》めては胃病の直る訳がないと思います」と細君は先刻《せんこく》の不平を暗《あん》に迷亭に洩《も》らす。「そんなにジャムを甞めるんですかまるで小供のようですね」「ジャムばかりじゃないんで、この頃は胃病の薬だとか云って大根卸《だいこおろ》しを無暗《むやみ》に甞めますので……」「驚ろいたな」と迷亭は感嘆する。「何でも大根卸《だいこおろし》の中にはジヤスターゼが有るとか云う話しを新聞で読んでからです」「なるほどそれでジャムの損害を償《つぐな》おうと云う趣向ですな。なかなか考えていらあハハハハ」と迷亭は細君の訴《うったえ》を聞いて大《おおい》に愉快な気色《けしき》である。「この間などは赤ん坊にまで甞めさせまして……」「ジャムをですか」「いいえ大根卸《だいこおろし》を……あなた。坊や御父様がうまいものをやるからおいでてって、――たまに小供を可愛がってくれるかと思うとそんな馬鹿な事ばかりするんです。二三日前《にさんちまえ》には中の娘を抱いて箪笥《たんす》の上へあげましてね……」「どう云う趣向がありました」と迷亭は何を聞いても趣向ずくめに解釈する。「なに趣向も何も有りゃしません、ただその上から飛び下りて見ろと云うんですわ、三つや四つの女の子ですもの、そんな御転婆《おてんば》な事が出来るはずがないです」「なるほどこりゃ趣向が無さ過ぎましたね。しかしあれで腹の中は毒のない善人ですよ」「あの上腹の中に毒があっちゃ、辛防《しんぼう》は出来ませんわ」と細君は大《おおい》に気焔《きえん》を揚げる。「まあそんなに不平を云わんでも善いでさあ。こうやって不足なくその日その日が暮らして行かれれば上《じょう》の分《ぶん》ですよ。苦沙弥君《くしゃみくん》などは道楽はせず、服装にも構わず、地味に世帯向《しょたいむ》きに出来上った人でさあ」とタ亭は柄《がら》にない説教を陽気な調子でやっている。「ところがあなた大違いで……」「何か内々でやりますかね。油断のならない世の中だからね」と飄然《ひょうぜん》とふわふわした返事をする。「ほかの道楽はないですが、無暗《むやみ》に読みもしない本ばかり買いましてね。それも善い加減に見計《みはか》らって買ってくれると善いんですけれど、勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取って来て、月末になると知らん顔をしているんですもの、去年の暮なんか、月々のが溜《たま》って大変困りました」「なあに書物なんか取って来るだけ取って来て構わんですよ。払いをとりに来たら今にやる今にやると云っていりゃ帰ってしまいまさあ」「それでも、そういつまでも引張る訳にも参りませんから」と妻君は憮然《ぶぜん》としている。「それじゃ、訳を話して書籍費《しょじゃくひ》を削減させるさ」「どうして、そんな言《こと》を云ったって、なかなか聞くものですか、この間などは貴様は学者の妻《さい》にも似合わん、毫《ごう》も書籍《しょじゃく》の価値を解しておらん、昔《むか》し羅馬《ローマ》にこう云う話しがある。後学のため聞いておけと云うんです」「そりゃ面白い、どんな話しですか」迷亭は乗気になる。細君に同情を表しているというよりむしろ好奇心に駆《か》られている。「何んでも昔し羅馬《ローマ》に樽金《たるきん》とか云う王様があって……」「樽金《たるきん》? 樽金はちと妙ですぜ」「私は唐人《とうじん》の名なんかむずかしくて覚えられませんわ。何でも七代目なんだそうです」「なるほど七代目樽金は妙ですな。ふんその七代目樽金がどうかしましたかい」「あら、あなたまで冷かしては立つ瀬がありませんわ。知っていらっしゃるなら教えて下さればいいじゃありませんか、人の悪い」と、細君は迷亭へ食って掛る。「何冷かすなんて、そんな人の悪い事をする僕じゃない。ただ七代目樽金は振《ふる》ってると思ってね……ええお待ちなさいよ羅馬《ローマ》の七代目の王様ですね、こうっとたしかには覚えていないがタークイン・ゼ・プラウドの事でしょう。まあ誰でもいい、その王様がどうしました」「その王様の所へ一人の女が本を九冊持って来て買ってくれないかと云ったんだそうです」「なるほど」「王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高い事を云うんですって、あまり高いもんだから少し負けないかと云うとその女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべて焚《や》いてしまったそうです」「惜しい事をしましたな」「その本の内には予言か何かほかで見られない事が書いてあるんですって」「へえー」「王様は九冊が六冊になったから少しは価《ね》も減ったろうと思って六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通り一文も引かないそうです、それは乱暴だと云うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。王様はまだ未練があったと見えて、余った三冊をいくらで売ると聞くと、やはり九冊分のねだんをくれと云うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても代価は、元の通り一厘も引かない、それを引かせようとすると、残ってる三冊も火にくべるかも知れないので、王様はとうとう高い御金を出して焚《や》け余《あま》りの三冊を買ったんですって……どうだこの話しで少しは書物のありがた味《み》が分ったろう、どうだと力味《りき》むのですけれど、私にゃ何がありがたいんだか、まあ分りませんね」と細君は一家の見識を立てて迷亭の返答を促《うな》がす。さすがの迷亭も少々窮したと見えて、袂《たもと》からハンケチを出して吾輩をじゃらしていたが「しかし奥さん」と急に何か考えついたように大きな声を出す。「あんなに本を買って矢鱈《やたら》に詰め込むものだから人から少しは学者だとか何とか云われるんですよ。この間ある文学雑誌を見たら苦沙弥君《くしゃみくん》の評が出ていましたよ」「ほんとに?」と細君は向き直る。主人の評判が気にかかるのは、やはり夫婦と見える。「何とかいてあったんです」「なあに二三行ばかりですがね。苦沙弥君の文は行雲流水《こううんりゅうすい》のごとしとありましたよ」細君は少しにこにこして「それぎりですか」「その次にね――出ずるかと思えば忽《たちま》ち消え、逝《ゆ》いては長《とこしな》えに帰るを忘るとありましたよ」細君は妙な顔をして「賞《ほ》めたんでしょうか」と心元ない調子である。「まあ賞めた方でしょうな」と迷亭は済ましてハンケチを吾輩の眼の前にぶら下げる。「書物は商買道具で仕方もござんすまいが、よっぽど偏屈《へんくつ》でしてねえ」迷亭はまた別途の方面から来たなと思って「偏屈は少々偏屈ですね、学問をするものはどうせあんなですよ」と調子を合わせるような弁護をするような不即不離の妙答をする。「せんだってなどは学校から帰ってすぐわきへ出るのに着物を着換えるのが面倒だものですから、あなた外套《がいとう》も脱がないで、机へ腰を掛けて御飯を食べるのです。御膳《おコん》を火燵櫓《こたつやぐら》の上へ乗せまして――私は御櫃《おはち》を抱《かか》えて坐っておりましたがおかしくって……」「何だかハイカラの首実検のようですな。しかしそんなところが苦沙弥君の苦沙弥君たるところで――とにかく月並《つきなみ》でない」と切《せつ》ない褒《ほ》め方をする。「月並か月並でないか女には分りませんが、なんぼ何でも、あまり乱暴ですわ」「しかし月並より好いですよ」と無暗に加勢すると細君は不満な様子で「一体、月並月並と皆さんが、よくおっしゃいますが、どんなのが月並なんです」と開き直って月並の定義を質問する、「月並ですか、月並と云うと――さようちと説明しにくいのですが……」「そんな曖昧《あいまい》なものなら月並だって好さそうなものじゃありませんか」と細君は女人《にょにん》一流の論理法で詰め寄せる。「曖昧じゃありませんよ、ちゃんと分っています、ただ説明しにくいだけの事でさあ」「何でも自分の嫌いな事を月並と云うんでしょう」と細君は我《われ》知らず穿《うが》った事を云う。迷亭もこうなると何とか月並の処置を付けなければならぬ仕儀となる。「奥さん、月並と云うのはね、まず年は二八か二九からぬ[#「年は二八か二九からぬ」に傍点]と言わず語らず物思い[#「言わず語らず物思い」に傍点]の間《あいだ》に寝転んでいて、この日や天気晴朗[#「この日や天気
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