まさあね」「そう人様《ひとさま》の事を悪く云うものではない。これも寿命《じゅみょう》だから」
三毛子も甘木先生に診察して貰ったものと見える。
「つまるところ表通りの教師のうちの野良猫《のらねこ》が無暗《むやみ》に誘い出したからだと、わたしは思うよ」「ええあの畜生《ちきしょう》が三毛のかたきでございますよ」
少し弁解したかったが、ここが我慢のしどころと唾《つば》を呑んで聞いている。話しはしばし途切《とぎ》れる。
「世の中は自由にならん者でのう。三毛のような器量よしは早死《はやじに》をするし。不器量な野良猫は達者でいたずらをしているし……」「その通りでございますよ。三毛のような可愛らしい猫は鐘と太鼓で探してあるいたって、二人《ふたり》とはおりませんからね」
二匹と云う代りに二《ふ》たりといった。下女の考えでは猫と人間とは同種族ものと思っているらしい。そう云えばこの下女の顔は吾等|猫属《ねこぞく》とはなはだ類似している。
「出来るものなら三毛の代りに……」「あの教師の所の野良《のら》が死ぬと御誂《おあつら》え通りに参ったんでございますがねえ」
御誂え通りになっては、ちと困る。死ぬと云う事はどんなものか、まだ経験した事がないから好きとも嫌いとも云えないが、先日あまり寒いので火消壺《ひけしつぼ》の中へもぐり込んでいたら、下女が吾輩がいるのも知らんで上から蓋《ふた》をした事があった。その時の苦しさは考えても恐しくなるほどであった。白君の説明によるとあの苦しみが今少し続くと死ぬのであるそうだ。三毛子の身代《みがわ》りになるのなら苦情もないが、あの苦しみを受けなくては死ぬ事が出来ないのなら、誰のためでも死にたくはない。
「しかし猫でも坊さんの御経を読んでもらったり、戒名《かいみょう》をこしらえてもらったのだから心残りはあるまい」「そうでございますとも、全く果報者《かほうもの》でございますよ。ただ慾を云うとあの坊さんの御経があまり軽少だったようでございますね」「少し短か過ぎたようだったから、大変御早うございますねと御尋ねをしたら、月桂寺《げっけいじ》さんは、ええ利目《ききめ》のあるところをちょいとやっておきました、なに猫だからあのくらいで充分浄土へ行かれますとおっしゃったよ」「あらまあ……しかしあの野良なんかは……」
吾輩は名前はないとしばしば断っておくのに、この下女は野良野良と吾輩を呼ぶ。失敬な奴だ。
「罪が深いんですから、いくらありがたい御経だって浮かばれる事はございませんよ」
吾輩はその後《ご》野良が何百遍繰り返されたかを知らぬ。吾輩はこの際限なき談話を中途で聞き棄てて、布団《ふとん》をすべり落ちて椽側から飛び下りた時、八万八千八百八十本の毛髪を一度にたてて身震《みぶる》いをした。その後《ご》二絃琴《にげんきん》の御師匠さんの近所へは寄りついた事がない。今頃は御師匠さん自身が月桂寺さんから軽少な御回向《ごえこう》を受けているだろう。
近頃は外出する勇気もない。何だか世間が慵《もの》うく感ぜらるる。主人に劣らぬほどの無性猫《ぶしょうねこ》となった。主人が書斎にのみ閉じ籠《こも》っているのを人が失恋だ失恋だと評するのも無理はないと思うようになった。
鼠《ねずみ》はまだ取った事がないので、一時は御三《おさん》から放逐論《ほうちくろん》さえ呈出《ていしゅつ》された事もあったが、主人は吾輩の普通一般の猫でないと云う事を知っているものだから吾輩はやはりのらくらしてこの家《や》に起臥《きが》している。この点については深く主人の恩を感謝すると同時にその活眼《かつがん》に対して敬服の意を表するに躊躇《ちゅうちょ》しないつもりである。御三が吾輩を知らずして虐待をするのは別に腹も立たない。今に左甚五郎《ひだりじんごろう》が出て来て、吾輩の肖像を楼門《ろうもん》の柱に刻《きざ》み、日本のスタンランが好んで吾輩の似顔をカンヴァスの上に描《えが》くようになったら、彼等|鈍瞎漢《どんかつかん》は始めて自己の不明を恥《は》ずるであろう。
三
三毛子は死ぬ。黒は相手にならず、いささか寂寞《せきばく》の感はあるが、幸い人間に知己《ちき》が出来たのでさほど退屈とも思わぬ。せんだっては主人の許《もと》へ吾輩の写真を送ってくれと手紙で依頼した男がある。この間は岡山の名産|吉備団子《きびだんご》をわざわざ吾輩の名宛で届けてくれた人がある。だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、己《おのれ》が猫である事はようやく忘却してくる。猫よりはいつの間《ま》にか人間の方へ接近して来たような心持になって、同族を糾合《きゅうごう》して二本足の先生と雌雄《しゆう》を決しようなどと云《い》う量見は昨今のところ毛頭《もうとう》ない。それのみか折々は吾輩もまた人間世界の一人だと思う折さえあるくらいに進化したのはたのもしい。あえて同族を軽蔑《けいべつ》する次第ではない。ただ性情の近きところに向って一身の安きを置くは勢《いきおい》のしからしむるところで、これを変心とか、軽薄とか、裏切りとか評せられてはちと迷惑する。かような言語を弄《ろう》して人を罵詈《ばり》するものに限って融通の利《き》かぬ貧乏性の男が多いようだ。こう猫の習癖を脱化して見ると三毛子[#「三毛子」に傍点]や黒[#「黒」に傍点]の事ばかり荷厄介にしている訳には行かん。やはり人間同等の気位《きぐらい》で彼等の思想、言行を評隲《ひょうしつ》したくなる。これも無理はあるまい。ただそのくらいな見識を有している吾輩をやはり一般|猫児《びょうじ》の毛の生《は》えたものくらいに思って、主人が吾輩に一言《いちごん》の挨拶もなく、吉備団子《きびだんご》をわが物顔に喰い尽したのは残念の次第である。写真もまだ撮《と》って送らぬ容子《ようす》だ。これも不平と云えば不平だが、主人は主人、吾輩は吾輩で、相互の見解が自然|異《こと》なるのは致し方もあるまい。吾輩はどこまでも人間になりすましているのだから、交際をせぬ猫の動作は、どうしてもちょいと筆に上《のぼ》りにくい。迷亭、寒月諸先生の評判だけで御免|蒙《こうむ》る事に致そう。
今日は上天気の日曜なので、主人はのそのそ書斎から出て来て、吾輩の傍《そば》へ筆硯《ふですずり》と原稿用紙を並べて腹這《はらばい》になって、しきりに何か唸《うな》っている。大方草稿を書き卸《おろ》す序開《じょびら》きとして妙な声を発するのだろうと注目していると、ややしばらくして筆太《ふでぶと》に「香一※[#「火+主」、第3水準1−87−40]《こういっしゅ》」とかいた。はてな詩になるか、俳句になるか、香一※[#「火+主」、第3水準1−87−40]とは、主人にしては少し洒落《しゃれ》過ぎているがと思う間もなく、彼は香一※[#「火+主」、第3水準1−87−40]を書き放しにして、新たに行《ぎょう》を改めて「さっきから天然居士《てんねんこじ》の事をかこうと考えている」と筆を走らせた。筆はそれだけではたと留ったぎり動かない。主人は筆を持って首を捻《ひね》ったが別段名案もないものと見えて筆の穂を甞《な》めだした。唇が真黒になったと見ていると、今度はその下へちょいと丸をかいた。丸の中へ点を二つうって眼をつける。真中へ小鼻の開いた鼻をかいて、真一文字に口を横へ引張った、これでは文章でも俳句でもない。主人も自分で愛想《あいそ》が尽きたと見えて、そこそこに顔を塗り消してしまった。主人はまた行《ぎょう》を改める。彼の考によると行さえ改めれば詩か賛か語か録か何《なん》かになるだろうとただ宛《あて》もなく考えているらしい。やがて「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋《やきいも》を食い、鼻汁《はな》を垂らす人である」と言文一致体で一気呵成《いっきかせい》に書き流した、何となくごたごたした文章である。それから主人はこれを遠慮なく朗読して、いつになく「ハハハハ面白い」と笑ったが「鼻汁《はな》を垂らすのは、ちと酷《こく》だから消そう」とその句だけへ棒を引く。一本ですむところを二本引き三本引き、奇麗な併行線《へいこうせん》を描《か》く、線がほかの行《ぎょう》まで食《は》み出しても構わず引いている。線が八本並んでもあとの句が出来ないと見えて、今度は筆を捨てて髭《ひげ》を捻《ひね》って見る。文章を髭から捻り出して御覧に入れますと云う見幕《けんまく》で猛烈に捻ってはねじ上げ、ねじ下ろしているところへ、茶の間から妻君《さいくん》が出て来てぴたりと主人の鼻の先へ坐《す》わる。「あなたちょっと」と呼ぶ。「なんだ」と主人は水中で銅鑼《どら》を叩《たた》くような声を出す。返事が気ノ入らないと見えて妻君はまた「あなたちょっと」と出直す。「なんだよ」と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。「今月はちっと足りませんが……」「足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん」とすまして抜き取った鼻毛を天下の奇観のごとく眺《なが》めている。「それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭《パン》を御食《おた》べになったり、ジャムを御舐《おな》めになるものですから」「元来ジャムは幾缶《いくかん》舐めたのかい」「今月は八つ入《い》りましたよ」「八つ? そんなに舐めた覚えはない」「あなたばかりじゃありません、子供も舐めます」「いくら舐めたって五六円くらいなものだ」と主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体《てい》で、ふっと吹いて見る。粘着力《ねんちゃくりょく》が強いので決して飛ばない。「いやに頑固《がんこ》だな」と主人は一生懸命に吹く。「ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない物もあります」と妻君は大《おおい》に不平な気色《けしき》を両頬に漲《みなぎ》らす。「あるかも知れないさ」と主人はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が交《まじ》る中に一本真白なのがある。大に驚いた様子で穴の開《あ》くほど眺めていた主人は指の股へ挟んだまま、その鼻毛を妻君の顔の前へ出す。「あら、いやだ」と妻君は顔をしかめて、主人の手を突き戻す。「ちょっと見ろ、鼻毛の白髪《しらが》だ」と主人は大に感動した様子である。さすがの妻君も笑いながら茶の間へ這入《はい》る。経済問題は断念したらしい。主人はまた天然居士《てんねんこじ》に取り懸《かか》る。
鼻毛で妻君を追払った主人は、まずこれで安心と云わぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうと焦《あせ》る体《てい》であるがなかなか筆は動かない。「焼芋を食う[#「焼芋を食う」に傍点]も蛇足《だそく》だ、割愛《かつあい》しよう」とついにこの句も抹殺《まっさつ》する。「香一※[#「火+主」、第3水準1−87−40][#「香一※[#「火+主」、第3水準1−87−40]」に傍点]もあまり唐突《とうとつ》だから已《や》めろ」と惜気もなく筆誅《ひっちゅう》する。余す所は「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」と云う一句になってしまった。主人はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は御廃《おはい》しにして、銘だけにしろと、筆を十文字に揮《ふる》って原稿紙の上へ下手な文人画の蘭を勢よくかく。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。それから裏を返して「空間に生れ、空間を究《きわ》め、空間に死す。空たり間たり天然居士《てんねんこじ》噫《ああ》」と意味不明な語を連《つら》ねているところへ例のごとく迷亭が這入《はい》って来る。迷亭は人の家《うち》も自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から飄然《ひょうぜん》と舞い込む事もある、心配、遠慮、気兼《きがね》、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。
「また巨人引力[#「巨人引力」に傍点]かね」と立ったまま主人に聞く。「そう、いつでも巨人引力[#「
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