「と引く。寒月《かんげつ》君じゃないが前歯がみんな折れるかと思った。どうも痛いの痛くないのって、餅の中へ堅く食い込んでいる歯を情《なさ》け容赦もなく引張るのだからたまらない。吾輩が「すべての安楽は困苦を通過せざるべからず」と云う第四の真理を経験して、けろけろとあたりを見廻した時には、家人はすでに奥座敷へ這入《はい》ってしまっておった。
 こんな失敗をした時には内にいて御三なんぞに顔を見られるのも何となくばつが悪い。いっその事気を易《か》えて新道の二絃琴《にげんきん》の御師匠さんの所《とこ》の三毛子《みけこ》でも訪問しようと台所から裏へ出た。三毛子はこの近辺で有名な美貌家《びぼうか》である。吾輩は猫には相違ないが物の情《なさ》けは一通り心得ている。うちで主人の苦《にが》い顔を見たり、御三の険突《けんつく》を食って気分が勝《すぐ》れん時は必ずこの異性の朋友《ほうゆう》の許《もと》を訪問していろいろな話をする。すると、いつの間《ま》にか心が晴々《せいせい》して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。女性の影響というものは実に莫大《ばくだい》なものだ。杉垣の隙から、いる
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