例によって天井の方へ視線をそらす。「僕も不思議の極《きょく》内心少々|怖《こわ》くなったから、なお余所《よそ》ながら容子《ようす》を窺《うかが》っていると、薬缶はようやく顔を洗い了《おわ》って、傍《かた》えの石の上に置いてあった高島田の鬘《かずら》を無雑作に被《かぶ》って、すましてうちへ這入《はい》ったんでなるほどと思った。なるほどとは思ったようなもののその時から、とうとう失恋の果敢《はか》なき運命をかこつ身となってしまった」「くだらない失恋もあったもんだ。ねえ、寒月君、それだから、失恋でも、こんなに陽気で元気がいいんだよ」と主人が寒月君に向って迷亭君の失恋を評すると、寒月君は「しかしその娘が丸薬缶でなくってめでたく東京へでも連れて御帰りになったら、先生はなお元気かも知れませんよ、とにかくせっかくの娘が禿《はげ》であったのは千秋《せんしゅう》の恨事《こんじ》ですねえ。それにしても、そんな若い女がどうして、毛が抜けてしまったんでしょう」「僕もそれについてはだんだん考えたんだが全く蛇飯を食い過ぎたせいに相違ないと思う。蛇飯てえ奴はのぼせるからね」「しかしあなたは、どこも何ともなくて結構でご
前へ 次へ
全750ページ中344ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング